池井昌樹「世界」ほか(「森羅」7、2017年11月09日発行)
池井昌樹の詩の感想をかくのはむずかしい。たとえば「世界」の書き出し。
私は世界のなかにいる。世界はきれいだから、きれいな世界にいると言いなおすことができる。ひとは輝くこともあれば、かげるときもある。喜びのときもあれば、悲しみに沈むときもある。逆の言い方もできる。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。それは交互に入れ替わる。くるくるまわっている感じ。そうやっていきている。それだけではないか。
だれもが一度や二度、そう思うことがある。
たぶん、ここからが、詩とは何かという問題になってくる。
だれでも思う。でも、それを明確に口に出し、ことばにすることはない。ぽつりぽつりと、思っているでも思っていないでもなく、なんとなく、ことばにする。けれど池井は違う。ぼんやりと思っているのではなく、「言い切る」。
ことばを選び、そのことばを「よし」と判断し、言い切る。揺らぎ、揺るぎがない。
こんなふうにことばを入れ替えるということは揺らいでいるからである。揺るぎがないのなら、どちらかひとつでいい、という見方があると思う。
でも、池井は、その「輝く」「陰る」を単に前後を入れ替えているのではなく、入れ替えることで「まわる」という動詞のなかで「ひとつ」にする。「ひとつ」のこととして言い切る。
という疑問のことばも、疑問を書いているのではない。断定せずに、「かしら」という疑問として言い切るのである。「かしら」は「問う」という動詞として読み直すべきなのだ。
「問う」は「指し示す」でもある。「ひとつ」の「世界」を、そうやって指し示す。これが世界であると「言い切る」。
この詩は、さらに言いなおされる。
言い直しが必要ということは、それが「揺らいでいる」証拠であると言い方もできる。だが、これは「揺らいでいる」から言いなおすのではない。それが確かだからこそ、「言い切る」ということを繰り返すのだ。
繰り返すことで、確かにする。
新しい視点がない、ひとを引きつけるような技巧的な言い回しもない。こういうことばなら、だれでも書ける。誰もが思っていることを「ひらがな」にして書いているだけじゃないか。
そういう批判があるかもしれない。
たしかに誰もが思うことだろう。だが、それをことばとして「言い切る」ということは、誰もがすることではない。また誰もができるということではない。
「山茶花」という作品の方が、その「言い切る」が、明確に形なっている。
「……ような/そうな」では、何も言い切っていないように見える。「気がする/思う」という動詞を補って「文章」にしてこそ「言い切る」と言えるのではないか、という声が聞こえてくる。
しかし、そうではない。「気がする/思う」は、必要がない。「気がする/思う」というのは、「肉体」にしみついている。だれでも、どんなときでも「気がする/思う」ものである。それは人間としてあたりまえのことである。あたりまえすぎて、それをことばにしなくても、自分で「納得」できる。そういう納得できることは、ことばにしなくてもすむ。
これを逆に言うと。
ことばにしなくては気が済まないことをことばとして「言い切る」。「言い切る」とそのことばの背後から自ずと「気がする/思う」という動詞はついて動く。
この詩は、こうつづく。
そして、この「想像(思う/気がする)」は、ことばにして「言い切る」と、想像(空想)ではなく「現実」になる。「ぼく」は山茶花として、あの家に咲く。そうすると、そこには父と母が必ず「いる」。
池井は、そう「言い切る」。
「言い切る」ときに、詩が生まれる。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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池井昌樹の詩の感想をかくのはむずかしい。たとえば「世界」の書き出し。
わたしはせかいのなかにいて
きれいなせかいのなかにいて
かがやいたりまたかげったり
かげったりまたかがやいたり
くるくるくるくるまわりつづけて
こうしていきているのだけれど
ただそれだけではないかしら
私は世界のなかにいる。世界はきれいだから、きれいな世界にいると言いなおすことができる。ひとは輝くこともあれば、かげるときもある。喜びのときもあれば、悲しみに沈むときもある。逆の言い方もできる。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。それは交互に入れ替わる。くるくるまわっている感じ。そうやっていきている。それだけではないか。
だれもが一度や二度、そう思うことがある。
たぶん、ここからが、詩とは何かという問題になってくる。
だれでも思う。でも、それを明確に口に出し、ことばにすることはない。ぽつりぽつりと、思っているでも思っていないでもなく、なんとなく、ことばにする。けれど池井は違う。ぼんやりと思っているのではなく、「言い切る」。
ことばを選び、そのことばを「よし」と判断し、言い切る。揺らぎ、揺るぎがない。
かがやいたりまたかげったり
かげったりまたかがやいたり
こんなふうにことばを入れ替えるということは揺らいでいるからである。揺るぎがないのなら、どちらかひとつでいい、という見方があると思う。
でも、池井は、その「輝く」「陰る」を単に前後を入れ替えているのではなく、入れ替えることで「まわる」という動詞のなかで「ひとつ」にする。「ひとつ」のこととして言い切る。
ただそれだけではないかしら
という疑問のことばも、疑問を書いているのではない。断定せずに、「かしら」という疑問として言い切るのである。「かしら」は「問う」という動詞として読み直すべきなのだ。
「問う」は「指し示す」でもある。「ひとつ」の「世界」を、そうやって指し示す。これが世界であると「言い切る」。
この詩は、さらに言いなおされる。
まちゆくひとらはほほえみながら
またかなしみをひめながら
おおぜいゆききするのだけれど
みんなせかいのなかにいて
それぞれせかいのなかにいて
くるくるくるくるまわりつづけて
ただそれだけではないかしら
言い直しが必要ということは、それが「揺らいでいる」証拠であると言い方もできる。だが、これは「揺らいでいる」から言いなおすのではない。それが確かだからこそ、「言い切る」ということを繰り返すのだ。
繰り返すことで、確かにする。
新しい視点がない、ひとを引きつけるような技巧的な言い回しもない。こういうことばなら、だれでも書ける。誰もが思っていることを「ひらがな」にして書いているだけじゃないか。
そういう批判があるかもしれない。
たしかに誰もが思うことだろう。だが、それをことばとして「言い切る」ということは、誰もがすることではない。また誰もができるということではない。
「山茶花」という作品の方が、その「言い切る」が、明確に形なっている。
さざんかのさくいえみれば
いまでもちちのいるような
ははのわらっているような
さざんかのさくいえみれば
かえれるところのありそうな
いますぐかえってゆけそうな
「……ような/そうな」では、何も言い切っていないように見える。「気がする/思う」という動詞を補って「文章」にしてこそ「言い切る」と言えるのではないか、という声が聞こえてくる。
しかし、そうではない。「気がする/思う」は、必要がない。「気がする/思う」というのは、「肉体」にしみついている。だれでも、どんなときでも「気がする/思う」ものである。それは人間としてあたりまえのことである。あたりまえすぎて、それをことばにしなくても、自分で「納得」できる。そういう納得できることは、ことばにしなくてもすむ。
これを逆に言うと。
ことばにしなくては気が済まないことをことばとして「言い切る」。「言い切る」とそのことばの背後から自ずと「気がする/思う」という動詞はついて動く。
この詩は、こうつづく。
さざんかのさくしらないいえを
ゆきすぎひとりきたけれど
いつものようにきたけれど
いまでもさいているような
ちちははのいるあのいえに
あのさざんかが
しんくのぼくが
そして、この「想像(思う/気がする)」は、ことばにして「言い切る」と、想像(空想)ではなく「現実」になる。「ぼく」は山茶花として、あの家に咲く。そうすると、そこには父と母が必ず「いる」。
池井は、そう「言い切る」。
「言い切る」ときに、詩が生まれる。
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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