安倍の沈黙作戦を許すな
自民党憲法改正草案を読む/番外133(情報の読み方)
2017年10月24日読売新聞の「社説」は「安倍政権再始動」というタイトル。見出しは、
と、安倍新政権への期待と要望を書いている。
その社説の最後に、「疑問」という形でひとつの「情報」が書かれている。
つまり、「沈黙作戦」をそのまま遂行するのだ。森友学園、加計学園問題は、未解明のもまま、なかったことになってしまう。記者会見で、二、三の記者に質問され、答えにならないような答えはしているが、国民の代表である国会議員の質問には何もこたえていない。「臨時国会開会」の要求にこたえず、やっと国会を開いたと思うと「解散」で審議を拒否、新議員(新国会)が誕生したのに、そこでも審議をしない。
なんのための国会なのか。
安倍は、「丁寧に説明する」ということばを繰り返すが何も説明していない。
「丁寧な説明」には「説明」を補足する十分な「証言」が必要である。多くの「証人」が必要である。安倍にとって都合のいいひとだけにこたえさせ、質問されたひとは「記憶にない」を繰り返す。それでは「丁寧な説明」ではなく「丁寧な隠蔽」である。
選挙期間中、安倍昭恵は下関の有権者に「なぜ証人喚問に出ないのか」と問われて「呼ばれていないので」とこたえていた。安倍昭恵が「呼ばれていないので証人喚問に出ない」というのなら呼べばいい。野党は要求している。「呼ばない」のは、だれか。安倍自身ではないか。安倍昭恵は「丁寧な説明」をしたがっている。安倍が、それを拒否している。
加計理事長もおなじだ。安倍が呼ばない方針を貫いている。身内をも「沈黙」させている。
読売新聞の社説は、さらにつづけている。
「森友・加計学園隠し」だけではない。「憲法改正」もあるし、「消費税/全世代型社会保障」もある。安倍は実質的には何も語らない。
特に「憲法改正」がひどい。
どう「改正」するのか、具体的には「文言」を示さない。選挙期間中、国民に向かって説明するといっていたはずだが、語ったのは「国会(憲法審査会)の審議にゆだねる」というようなことを言っている。「答え」を先のばしにしているというより、すでに決めていることがあって、それを「語らない」。語れば反発がくる。だから「沈黙」する。安倍が「沈黙」したままでは、野党は反論できない。つまり、議論が行われずに、安倍が思っていることがそのまま「憲法」になるということだ。
安倍はさらにもうひとつの「沈黙作戦」も展開する。「憲法改正に反対」という意見を「反対するだけでは議論にならない。対案を示せ」という形で「憲法改正に反対」という声を「沈黙」させる。「対案をださないのは無責任だ」と批判する。
「対案」にはいろいろな形がある。「憲法改正に反対」、いまの憲法を守れ、というはきちんとした「対案」である。それを「対案」と認めないのは、安倍の暴論であり、作戦にすぎない。
だいたい安倍の議論の出発点がおかしい。多くの憲法学者が自衛隊は違憲だと言っている。災害救助に活躍している自衛隊員を親に持つ子どもたちが、これではかわいそうだ、云々。これはほんとうか。
自衛隊員の子どものだれかが、「憲法違反の自衛隊員のこども」というような批判を受けたということがあるのか。災害救助に出動している自衛隊員の姿がテレビに映る。それを見たこども(あるいは大人)が、「あ、〇〇ちゃんのお父さんだ。自衛隊は憲法違反なんだよね」と言って、いじめたりしたことがあるのか。誰も「自衛隊は違憲だ」という「論理」を持ち出して、自衛隊員のこどもを批判していないのだったら、「自衛隊員のこどもがかわいそう」という「論理」自体がおかしい。そんな「感情論」を憲法をかえる根拠にするのはおかしい。だれが、安倍のいっていることを「事実」として確認したのか。安倍の「妄想/捏造」ではないのか。
「感情論(同情論)」を展開する前に、もっと「事実」に則して言うべきである。
憲法学者は、自衛隊員が災害救助に出動することを「違憲」と言っているだろうか。野党、その最左翼とみなされている共産党でさえ、「自衛隊員が災害救助に出動するのは違憲だ」と言わないだろう。誰も言っていないことを、あたかも言っているかのように「論理」をごまかして、本質論を「沈黙」させている。
国民は、自衛隊の存在を「容認」している。災害救助での活動には国民が感謝している。だが、その自衛隊員が、海外へ出動し、戦争に参加する(加担する)ことには反対している。海外へまで出て行くことは完全に憲法違反であると言っている。
ある国が日本の領土・領空を侵犯し、日本人を攻撃し、殺すというようなことが起きたとき、自衛隊が活動するということに対し、「違憲」と主張している国民はほとんどいないだろう。自衛隊に助けを求めるだろ。助けを求めるとしたら、自衛隊に求めるだろう。「個別的自衛権」は容認されているというのが現実だろう。
「ある国が攻撃してきたら」と「仮定」の議論をするまえに、国民が自衛隊をどうとらえているか、その「事実」から出発しないといけない。
憲法の文言を厳密に適用すると「個別的自衛権」も違憲かもしれない。しかし、国民はすでに自衛隊を容認している。これは、「自衛隊は違憲である、廃止せよ」という訴訟が起こされていないことからもわかる。自衛隊が誕生して、もう長い年月が経つ。その間に、「容認」は定着している。定着しているという「事実」があるのに、それを無視して議論するのはどういうものだろう。
あたかも憲法学者が(あるいは野党が、あるいは戦争に反対する国民が)、「自衛隊は違憲である」は主張し、自衛隊を廃止する法律を要求しているかのようではないか。これは、安倍の情報操作である。
また、自衛隊を海外に出動させるために「戦争法」をつくったのに、なぜ憲法を改正する必要があるのか。憲法は「集団的自衛権を否定している」という一般的な解釈を無視して戦争法をつ強引に成立させた。もう憲法に自衛隊が合憲であると書き加えなくても、自衛隊を海外出動させることができる。なぜ、憲法を改正する必要があるのか。そういう議論もしないといけない。なんのために戦争法をつくったのか、ということまで遡って議論しないといけない。
*
安倍の「沈黙作戦」を考えるとき、もうひとつ考えたいことがある。
衆院選の最後の演説。安倍は、警官がつくった「分離帯」に守られて演説した。安倍支持派と安倍批判派が「分離」された状態のなかで演説が行われた。
この「分離」はまた「沈黙作戦」のひとつである。
そしてこの「分離/沈黙作戦」がいちばん有効に働いているのがネットの世界である。SNSの世界である。そこでは「同類」しか集まらない。安倍支持派は安倍支持派であつまり、ことばを共有する。安倍批判派は安倍批判派であつまり、ことばを共有する。たがいに、「私たちはこんなに正しい。そして、正しさはこんなに共有されている」と思い込む。「分離」させられたまま、互いに相手をののしっている。「議論」がない。
「議論」が沈黙させられている。きちんと「議論」が動いている場というものが、日本からなくなっている。「議論」の場である国会さえもが、安倍の都合で沈黙させられ、あらゆることばが「分断」されている。 安倍はこの分断を積極的につくりだし、利用している。
安倍の、警官隊に守られたゾーンでは「北朝鮮殲滅」という横断幕が掲げられた。それに対する批判をするひとはまわりには誰もいない。警官さえも注意しない。もちろん安倍も、その横断幕に対して注意などしない。「北朝鮮殲滅」というスローガンがどんなに危険なものであるか、議論されることなく、それが安倍を中心にしたゾーン(警官に守られたゾーン)で共有され、広がっていく。日の丸の旗が、そのまわりで打ちふられ、スローガンが共有されていく。
この「分断」を修復し、「議論の場」をどうつくっていくかはむずかしい問題である。
そういう意味で、私は毎日新聞に期待している。夕刊の特集で、いろいろな話題を取り上げている。10月24日の夕刊では、秋葉原での安倍の演説にふれ、「北朝鮮殲滅」の横断幕も取り上げていた。この問題は、もっと取り上げられるべき問題である。マスコミが、野党が、どう安倍の責任を追及していくか、そのことを見つめたい。
自民党憲法改正草案を読む/番外133(情報の読み方)
2017年10月24日読売新聞の「社説」は「安倍政権再始動」というタイトル。見出しは、
脱デフレへ成長力を強化せよ/北朝鮮危機に日米同盟生かそう
と、安倍新政権への期待と要望を書いている。
その社説の最後に、「疑問」という形でひとつの「情報」が書かれている。
疑問なのは、政府・与党内で、年内は実質的な国会審議を見送る案が浮上していることだ。
つまり、「沈黙作戦」をそのまま遂行するのだ。森友学園、加計学園問題は、未解明のもまま、なかったことになってしまう。記者会見で、二、三の記者に質問され、答えにならないような答えはしているが、国民の代表である国会議員の質問には何もこたえていない。「臨時国会開会」の要求にこたえず、やっと国会を開いたと思うと「解散」で審議を拒否、新議員(新国会)が誕生したのに、そこでも審議をしない。
なんのための国会なのか。
安倍は、「丁寧に説明する」ということばを繰り返すが何も説明していない。
「丁寧な説明」には「説明」を補足する十分な「証言」が必要である。多くの「証人」が必要である。安倍にとって都合のいいひとだけにこたえさせ、質問されたひとは「記憶にない」を繰り返す。それでは「丁寧な説明」ではなく「丁寧な隠蔽」である。
選挙期間中、安倍昭恵は下関の有権者に「なぜ証人喚問に出ないのか」と問われて「呼ばれていないので」とこたえていた。安倍昭恵が「呼ばれていないので証人喚問に出ない」というのなら呼べばいい。野党は要求している。「呼ばない」のは、だれか。安倍自身ではないか。安倍昭恵は「丁寧な説明」をしたがっている。安倍が、それを拒否している。
加計理事長もおなじだ。安倍が呼ばない方針を貫いている。身内をも「沈黙」させている。
読売新聞の社説は、さらにつづけている。
新内閣発足を機に、首相の所信表明演説や各党の代表質問、予算委員会質疑などを行うのは最低限の責務だ。見送れば、「森友・加計学園隠し」批判は免れまい。
「森友・加計学園隠し」だけではない。「憲法改正」もあるし、「消費税/全世代型社会保障」もある。安倍は実質的には何も語らない。
特に「憲法改正」がひどい。
どう「改正」するのか、具体的には「文言」を示さない。選挙期間中、国民に向かって説明するといっていたはずだが、語ったのは「国会(憲法審査会)の審議にゆだねる」というようなことを言っている。「答え」を先のばしにしているというより、すでに決めていることがあって、それを「語らない」。語れば反発がくる。だから「沈黙」する。安倍が「沈黙」したままでは、野党は反論できない。つまり、議論が行われずに、安倍が思っていることがそのまま「憲法」になるということだ。
安倍はさらにもうひとつの「沈黙作戦」も展開する。「憲法改正に反対」という意見を「反対するだけでは議論にならない。対案を示せ」という形で「憲法改正に反対」という声を「沈黙」させる。「対案をださないのは無責任だ」と批判する。
「対案」にはいろいろな形がある。「憲法改正に反対」、いまの憲法を守れ、というはきちんとした「対案」である。それを「対案」と認めないのは、安倍の暴論であり、作戦にすぎない。
だいたい安倍の議論の出発点がおかしい。多くの憲法学者が自衛隊は違憲だと言っている。災害救助に活躍している自衛隊員を親に持つ子どもたちが、これではかわいそうだ、云々。これはほんとうか。
自衛隊員の子どものだれかが、「憲法違反の自衛隊員のこども」というような批判を受けたということがあるのか。災害救助に出動している自衛隊員の姿がテレビに映る。それを見たこども(あるいは大人)が、「あ、〇〇ちゃんのお父さんだ。自衛隊は憲法違反なんだよね」と言って、いじめたりしたことがあるのか。誰も「自衛隊は違憲だ」という「論理」を持ち出して、自衛隊員のこどもを批判していないのだったら、「自衛隊員のこどもがかわいそう」という「論理」自体がおかしい。そんな「感情論」を憲法をかえる根拠にするのはおかしい。だれが、安倍のいっていることを「事実」として確認したのか。安倍の「妄想/捏造」ではないのか。
「感情論(同情論)」を展開する前に、もっと「事実」に則して言うべきである。
憲法学者は、自衛隊員が災害救助に出動することを「違憲」と言っているだろうか。野党、その最左翼とみなされている共産党でさえ、「自衛隊員が災害救助に出動するのは違憲だ」と言わないだろう。誰も言っていないことを、あたかも言っているかのように「論理」をごまかして、本質論を「沈黙」させている。
国民は、自衛隊の存在を「容認」している。災害救助での活動には国民が感謝している。だが、その自衛隊員が、海外へ出動し、戦争に参加する(加担する)ことには反対している。海外へまで出て行くことは完全に憲法違反であると言っている。
ある国が日本の領土・領空を侵犯し、日本人を攻撃し、殺すというようなことが起きたとき、自衛隊が活動するということに対し、「違憲」と主張している国民はほとんどいないだろう。自衛隊に助けを求めるだろ。助けを求めるとしたら、自衛隊に求めるだろう。「個別的自衛権」は容認されているというのが現実だろう。
「ある国が攻撃してきたら」と「仮定」の議論をするまえに、国民が自衛隊をどうとらえているか、その「事実」から出発しないといけない。
憲法の文言を厳密に適用すると「個別的自衛権」も違憲かもしれない。しかし、国民はすでに自衛隊を容認している。これは、「自衛隊は違憲である、廃止せよ」という訴訟が起こされていないことからもわかる。自衛隊が誕生して、もう長い年月が経つ。その間に、「容認」は定着している。定着しているという「事実」があるのに、それを無視して議論するのはどういうものだろう。
あたかも憲法学者が(あるいは野党が、あるいは戦争に反対する国民が)、「自衛隊は違憲である」は主張し、自衛隊を廃止する法律を要求しているかのようではないか。これは、安倍の情報操作である。
また、自衛隊を海外に出動させるために「戦争法」をつくったのに、なぜ憲法を改正する必要があるのか。憲法は「集団的自衛権を否定している」という一般的な解釈を無視して戦争法をつ強引に成立させた。もう憲法に自衛隊が合憲であると書き加えなくても、自衛隊を海外出動させることができる。なぜ、憲法を改正する必要があるのか。そういう議論もしないといけない。なんのために戦争法をつくったのか、ということまで遡って議論しないといけない。
*
安倍の「沈黙作戦」を考えるとき、もうひとつ考えたいことがある。
衆院選の最後の演説。安倍は、警官がつくった「分離帯」に守られて演説した。安倍支持派と安倍批判派が「分離」された状態のなかで演説が行われた。
この「分離」はまた「沈黙作戦」のひとつである。
そしてこの「分離/沈黙作戦」がいちばん有効に働いているのがネットの世界である。SNSの世界である。そこでは「同類」しか集まらない。安倍支持派は安倍支持派であつまり、ことばを共有する。安倍批判派は安倍批判派であつまり、ことばを共有する。たがいに、「私たちはこんなに正しい。そして、正しさはこんなに共有されている」と思い込む。「分離」させられたまま、互いに相手をののしっている。「議論」がない。
「議論」が沈黙させられている。きちんと「議論」が動いている場というものが、日本からなくなっている。「議論」の場である国会さえもが、安倍の都合で沈黙させられ、あらゆることばが「分断」されている。 安倍はこの分断を積極的につくりだし、利用している。
安倍の、警官隊に守られたゾーンでは「北朝鮮殲滅」という横断幕が掲げられた。それに対する批判をするひとはまわりには誰もいない。警官さえも注意しない。もちろん安倍も、その横断幕に対して注意などしない。「北朝鮮殲滅」というスローガンがどんなに危険なものであるか、議論されることなく、それが安倍を中心にしたゾーン(警官に守られたゾーン)で共有され、広がっていく。日の丸の旗が、そのまわりで打ちふられ、スローガンが共有されていく。
この「分断」を修復し、「議論の場」をどうつくっていくかはむずかしい問題である。
そういう意味で、私は毎日新聞に期待している。夕刊の特集で、いろいろな話題を取り上げている。10月24日の夕刊では、秋葉原での安倍の演説にふれ、「北朝鮮殲滅」の横断幕も取り上げていた。この問題は、もっと取り上げられるべき問題である。マスコミが、野党が、どう安倍の責任を追及していくか、そのことを見つめたい。
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載 | |
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