詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の沈黙作戦を許すな

2017-10-25 17:29:38 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の沈黙作戦を許すな
            自民党憲法改正草案を読む/番外133(情報の読み方)

 2017年10月24日読売新聞の「社説」は「安倍政権再始動」というタイトル。見出しは、

脱デフレへ成長力を強化せよ/北朝鮮危機に日米同盟生かそう

 と、安倍新政権への期待と要望を書いている。
 その社説の最後に、「疑問」という形でひとつの「情報」が書かれている。

 疑問なのは、政府・与党内で、年内は実質的な国会審議を見送る案が浮上していることだ。

 つまり、「沈黙作戦」をそのまま遂行するのだ。森友学園、加計学園問題は、未解明のもまま、なかったことになってしまう。記者会見で、二、三の記者に質問され、答えにならないような答えはしているが、国民の代表である国会議員の質問には何もこたえていない。「臨時国会開会」の要求にこたえず、やっと国会を開いたと思うと「解散」で審議を拒否、新議員(新国会)が誕生したのに、そこでも審議をしない。
 なんのための国会なのか。
 安倍は、「丁寧に説明する」ということばを繰り返すが何も説明していない。
 「丁寧な説明」には「説明」を補足する十分な「証言」が必要である。多くの「証人」が必要である。安倍にとって都合のいいひとだけにこたえさせ、質問されたひとは「記憶にない」を繰り返す。それでは「丁寧な説明」ではなく「丁寧な隠蔽」である。
 選挙期間中、安倍昭恵は下関の有権者に「なぜ証人喚問に出ないのか」と問われて「呼ばれていないので」とこたえていた。安倍昭恵が「呼ばれていないので証人喚問に出ない」というのなら呼べばいい。野党は要求している。「呼ばない」のは、だれか。安倍自身ではないか。安倍昭恵は「丁寧な説明」をしたがっている。安倍が、それを拒否している。 
 加計理事長もおなじだ。安倍が呼ばない方針を貫いている。身内をも「沈黙」させている。
 読売新聞の社説は、さらにつづけている。

 新内閣発足を機に、首相の所信表明演説や各党の代表質問、予算委員会質疑などを行うのは最低限の責務だ。見送れば、「森友・加計学園隠し」批判は免れまい。

 「森友・加計学園隠し」だけではない。「憲法改正」もあるし、「消費税/全世代型社会保障」もある。安倍は実質的には何も語らない。
 特に「憲法改正」がひどい。
 どう「改正」するのか、具体的には「文言」を示さない。選挙期間中、国民に向かって説明するといっていたはずだが、語ったのは「国会(憲法審査会)の審議にゆだねる」というようなことを言っている。「答え」を先のばしにしているというより、すでに決めていることがあって、それを「語らない」。語れば反発がくる。だから「沈黙」する。安倍が「沈黙」したままでは、野党は反論できない。つまり、議論が行われずに、安倍が思っていることがそのまま「憲法」になるということだ。
 安倍はさらにもうひとつの「沈黙作戦」も展開する。「憲法改正に反対」という意見を「反対するだけでは議論にならない。対案を示せ」という形で「憲法改正に反対」という声を「沈黙」させる。「対案をださないのは無責任だ」と批判する。
 「対案」にはいろいろな形がある。「憲法改正に反対」、いまの憲法を守れ、というはきちんとした「対案」である。それを「対案」と認めないのは、安倍の暴論であり、作戦にすぎない。
 だいたい安倍の議論の出発点がおかしい。多くの憲法学者が自衛隊は違憲だと言っている。災害救助に活躍している自衛隊員を親に持つ子どもたちが、これではかわいそうだ、云々。これはほんとうか。
 自衛隊員の子どものだれかが、「憲法違反の自衛隊員のこども」というような批判を受けたということがあるのか。災害救助に出動している自衛隊員の姿がテレビに映る。それを見たこども(あるいは大人)が、「あ、〇〇ちゃんのお父さんだ。自衛隊は憲法違反なんだよね」と言って、いじめたりしたことがあるのか。誰も「自衛隊は違憲だ」という「論理」を持ち出して、自衛隊員のこどもを批判していないのだったら、「自衛隊員のこどもがかわいそう」という「論理」自体がおかしい。そんな「感情論」を憲法をかえる根拠にするのはおかしい。だれが、安倍のいっていることを「事実」として確認したのか。安倍の「妄想/捏造」ではないのか。
 「感情論(同情論)」を展開する前に、もっと「事実」に則して言うべきである。
 憲法学者は、自衛隊員が災害救助に出動することを「違憲」と言っているだろうか。野党、その最左翼とみなされている共産党でさえ、「自衛隊員が災害救助に出動するのは違憲だ」と言わないだろう。誰も言っていないことを、あたかも言っているかのように「論理」をごまかして、本質論を「沈黙」させている。
 国民は、自衛隊の存在を「容認」している。災害救助での活動には国民が感謝している。だが、その自衛隊員が、海外へ出動し、戦争に参加する(加担する)ことには反対している。海外へまで出て行くことは完全に憲法違反であると言っている。
 ある国が日本の領土・領空を侵犯し、日本人を攻撃し、殺すというようなことが起きたとき、自衛隊が活動するということに対し、「違憲」と主張している国民はほとんどいないだろう。自衛隊に助けを求めるだろ。助けを求めるとしたら、自衛隊に求めるだろう。「個別的自衛権」は容認されているというのが現実だろう。
 「ある国が攻撃してきたら」と「仮定」の議論をするまえに、国民が自衛隊をどうとらえているか、その「事実」から出発しないといけない。
 憲法の文言を厳密に適用すると「個別的自衛権」も違憲かもしれない。しかし、国民はすでに自衛隊を容認している。これは、「自衛隊は違憲である、廃止せよ」という訴訟が起こされていないことからもわかる。自衛隊が誕生して、もう長い年月が経つ。その間に、「容認」は定着している。定着しているという「事実」があるのに、それを無視して議論するのはどういうものだろう。
 あたかも憲法学者が(あるいは野党が、あるいは戦争に反対する国民が)、「自衛隊は違憲である」は主張し、自衛隊を廃止する法律を要求しているかのようではないか。これは、安倍の情報操作である。
 また、自衛隊を海外に出動させるために「戦争法」をつくったのに、なぜ憲法を改正する必要があるのか。憲法は「集団的自衛権を否定している」という一般的な解釈を無視して戦争法をつ強引に成立させた。もう憲法に自衛隊が合憲であると書き加えなくても、自衛隊を海外出動させることができる。なぜ、憲法を改正する必要があるのか。そういう議論もしないといけない。なんのために戦争法をつくったのか、ということまで遡って議論しないといけない。








 安倍の「沈黙作戦」を考えるとき、もうひとつ考えたいことがある。
 衆院選の最後の演説。安倍は、警官がつくった「分離帯」に守られて演説した。安倍支持派と安倍批判派が「分離」された状態のなかで演説が行われた。
 この「分離」はまた「沈黙作戦」のひとつである。
 そしてこの「分離/沈黙作戦」がいちばん有効に働いているのがネットの世界である。SNSの世界である。そこでは「同類」しか集まらない。安倍支持派は安倍支持派であつまり、ことばを共有する。安倍批判派は安倍批判派であつまり、ことばを共有する。たがいに、「私たちはこんなに正しい。そして、正しさはこんなに共有されている」と思い込む。「分離」させられたまま、互いに相手をののしっている。「議論」がない。
 「議論」が沈黙させられている。きちんと「議論」が動いている場というものが、日本からなくなっている。「議論」の場である国会さえもが、安倍の都合で沈黙させられ、あらゆることばが「分断」されている。 安倍はこの分断を積極的につくりだし、利用している。
 安倍の、警官隊に守られたゾーンでは「北朝鮮殲滅」という横断幕が掲げられた。それに対する批判をするひとはまわりには誰もいない。警官さえも注意しない。もちろん安倍も、その横断幕に対して注意などしない。「北朝鮮殲滅」というスローガンがどんなに危険なものであるか、議論されることなく、それが安倍を中心にしたゾーン(警官に守られたゾーン)で共有され、広がっていく。日の丸の旗が、そのまわりで打ちふられ、スローガンが共有されていく。
 この「分断」を修復し、「議論の場」をどうつくっていくかはむずかしい問題である。
 そういう意味で、私は毎日新聞に期待している。夕刊の特集で、いろいろな話題を取り上げている。10月24日の夕刊では、秋葉原での安倍の演説にふれ、「北朝鮮殲滅」の横断幕も取り上げていた。この問題は、もっと取り上げられるべき問題である。マスコミが、野党が、どう安倍の責任を追及していくか、そのことを見つめたい。















詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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岸田将幸「県道」

2017-10-25 15:41:20 | 詩(雑誌・同人誌)
岸田将幸「県道」(「森羅」7、2017年11月09日発行)

 岸田将幸のことばの音楽と、池井昌樹の手書きの文字はあわない、と私は思っていた。岸田のことばはすばやく動く。池井の文字は、ゆっくりくねる。いっしょになると、おちつかない。
 でも、違った。
 あっている、というのではないが、岸田のことばの音楽がそのまま聞こえてきた。岸田の音楽の方が強いということだろう。ことばは「視覚」でとらえるものではなく、まず「聴覚」に働きかけてくるものなのだということを、あらためて思った。「耳」から入ってきて、「肉体」のなかに残った「音」が響きあい、「論理」を動かしていく「強さ」をもと、とも。
 「県道」の二連目と三連目。

青信号と黄信号の間の時に
きみときみを思い出すその間に
運命が口ずさむ
七十まで生きるとしたらと逆算している
なんてくだらない歌と歌がうたう
ファムファタル 助けてほしい

忘れるために県道を歩く
きみの胸のスピードはいまどれほどだろうか
僕は道々 カズラを引っこ抜きながら
地面の軟らかさを確かめている、虚ろ
また、一緒に何かを頬張りながら
馴染みのある高さの山を眺めたいよ
何も変わらない高さを僕らは知っている
忘れたいのに

 現代詩がいつからこんなにロマンチックになったのかわからないが、岸田のことばにはロマンチックと同時に、不思議な音楽がある。「論理」がそのままメロディーになっているような音の不思議がある。
 「青信号と黄信号の間の時に」と「きみときみを思い出すその間に」は「間に」ということばを中心にして、ぴったり重なり合う。「きみ」が「青信号」ならば「きみを思い出す」は「黄信号」か。そんなはずはないのだが。そして、その「そんなはずはない」という「論理」が、「きみ」と「きみを思い出す」の違いを「論理的に証明せよ」と要求してくる。一瞬、しのびこんだ「そんなはずはない」という断絶(切断)、隙間、論理の「間」から。うーん。たしかに「青信号」と「黄信号」の断絶と接続の「間」のようなものと、「きみ」と「きみを思い出す」の「間」には断絶と接続があるのだ。
 それがどういうものなのか、具体的に言うのはむずかしいが、断絶と接続、それがおこなわれる「間」があることだけは確かだろう。
 この確かか、不確かかよくわからないものは「逆算」ということばのなかで、不思議な形で動く。「きみを思い出す」から「きみ」を「逆算」するのか、「きみを思い出す」とき、そこに「きみ」があらわれるのか。「きみ」がいるから「きみを思い出す」というのは、「論理的」ではないから、たぶん「きみを思い出す」ということが「きみ」を逆算し、「確かめる」ということなんだろうなあ。
 「逆算」は「思い出す」と重なり、「思い出す」は「思う」とも重なる。「思う」ことが「逆算」でもある。三連目には、この「思う/思い出す」「逆算する」が知らず知らずの間に引き出した「確かめる」ということばとなって動いている。「地面の軟らかさを確かめている」という具合に。でも、この「確かめる」は「思う」でもある。「地面の軟らかさを思っている」でもある。それはあるとき草を引っこ抜いたこと、そのときの地面の軟らかさを「思い出す」でもある。「確かめる」は「思い出したこと」と「いま起きていること」を結びつけて、「いま起きていること」を「思い出したこと(既成のこと)」で言いなおすことである。「いま起きていること」を「知っていること(思い出せること)」で定義しなおすことである。「定義しなおす」ことによって「確か」にかわる。
 こういうことが岸田のことばといっしょに、起きている。そして、そのことばの動きは、どこか一直線で、スピードがある。
 で、この「一直線」のスピードを貫いているのが「思う」という「動詞」なのだ。「思う」という動詞は「思い出す」という形で、見えるような、見えないような感じで動いているが、隠れている「思う」、書かれていない「思う」を、こんなふうに補ってみると、「思う」こそが岸田のこの詩を貫く動詞だとわかる。

きみの胸のスピードはいまどれほどだろうか(と思う)

 それは「思う」とき、「思う間」だけ、そこにあらわれてくる何かである。「思う間」しか存在しない。そういう切実さが、この詩を貫いていることがわかる。そして、その「思う」スピードは、「きみの胸のスピードはいまどれほどだろうかと思う」から「思う」を省略しないではいられないほど速い。「思う」は岸田にはわかっている。「きみを思う」は岸田の肉体になってしまっている。だから「思う」を省略してことばを動かしてしまう。
 「思う」は知らないものを「想像する」ということではない。ことばで捏造する、ということではない。「思う」はあくまでも知っていることを「確かめる」である。知っているきみを確かめる。
 この「知っている」は

馴染みのある高さの山を眺めたいよ

 の「馴染みのある」ということばに変わる。「きみを知っている」は「きみに馴染みがある/きみと馴染んでいる」でもある。
 そして、この「馴染みのある」は次の行で

何も変わらない高さを僕らは知っている

 の「何も変わらない」と言い換えられる。「きみときみを思い出す」は、このとき「何も変わらないきみ」という形に結晶する。「きみは何も変わらない」。そのことを「知っている」(確かめることができる)。きみを思う気持ちは「何も変わらない」ということを岸田は「確かめている」。
 それは忘れようとしても「忘れられない」。「忘れたいのに」は、一種の「逆説」のようなものだ。「忘れることができれば、どんなに気楽になるだろう」という気持ちは、誰にでもふいに起きる。「気楽になるために忘れたい」。けれど、「忘れられない」。思い出してしまう。

 ことばが、どこまでも一直線に、スピードを落とすことなく動いている。休むことなく、憩うことなく、と書くとまるでゲーテだが。このスピードと音楽が、ほんとうに美しい。
 で、このスピードがあるからだと思うが、

ファムファタル 助けてほしい

 という「くだらない歌(歌謡曲?)」のような一行にも、私は感動してしまう。「ファムファタル」と「助けてほしい」ということばの「た」の響きあい、「ファ」と「ほ」の音の響きあいにも。「ファムファタル」と「助けてほしい」の音の「間」にある切断と接続(断絶と接続)に何か「強さ」がある。これはなんだろう。そう考えた時、あ、ここにも「助けてほしい(と思う)」と「思う」が隠されていることに気づくのである。
 「思う」は「叫ぶ」でもある。こころが叫んでいる。それはほかのひとには聞こえないかもしれない。でも、「きみ」には聞こえるはずだ、と言うとロマンチックになりすぎるから、私はこう言いなおす。その「思う/叫ぶ」声は、岸田には、耳をふさいでもふさいでも聞こえる。岸田の「肉体」のなかで動いている声だからである。

 ロマンチックがこんなに美しいなんて、私はすっかり忘れていた。

亀裂のオントロギー
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