覚和歌子、谷川俊太郎『対詩 2馬力』(2)(ナナロク社、2017年10月15日発行)
「産声にひそむ暗号」という「対詩」のなかに、こういう部分がある。
この「ヒロシ」とは誰だろう。「ぼく」はこの詩を書いた人。「ぼく」だから谷川か。覚が「ぼく」という人称を借りて、自分の体験を語っているとも読むことができる。
このとき読者は、「ぼく」になり、同時にこういう経験をしたときの相手を「ヒロシ」と思う。いや、「ヒロシ」とは、絶対に思わないね。自分の知っている誰かを「ヒロシ」と仮に名付けることで、「体験」そのものを思い出す。
ひと(個人)よりも、「体験」の方に重きがある。
「口けんかする」「黙る」「思う」「目を見る」「見つめ返す」という「動詞」を自分の「肉体」のなかから引っぱり出してくる。「ぼく(谷川/覚)」と「ヒロシ」の「肉体」を舞台で見るように見るのではなく、自分自身と誰かとの体験を「ことば/動詞」のなかにみている。
「ぼく」は谷川であって谷川ではないし、覚であって覚でもない。「わたし(女性)」かもしれない。「ヒロシ」も「ヒロシ」であって「ヒロシ」ではない。「ヨウコ」かもしれない。
それが誰であっても、「体験」(動詞)が重なる。
これは、奇妙だね。
「舞台(芝居)」では「存在感のある役者」ということばがある。出てきただけで「過去」というか「その人個人の歴史」みたいなものを感じさせる役者。「感情」が何もしないのに、そこに立っている。
そういう「存在感」とは逆のものがある。
「ぼく」は「ぼく」であって、ほかの誰でもない。「ぼく」のことを読者とは思わないでくれ。これは「ぼく」の固有の体験なのだ、というような「主張」がない。
この詩は、結婚式のシーンだね。一行目は、よく聞く状況である。二行目も、まあ、結婚式のスピーチらしい。「白無垢」だから「私」は女性か。もちろん、白無垢の女性をとなりにして、男が「ばかなことを言っている」と思っていることも想像できるが、そうすると「部長」とのつながりが悪くなるし、「私は私をやっていく」ともぎくしゃくするから、やっぱり女性。そうすると、この詩は覚が書いた? そう考える方が自然? 女性だから、自分を女性に託して書いた。
いや、違うね。
きのうの谷川の詩の特徴は「対」にある、と書いた。この詩も「対」でできている。一行目と二行目は「具体的な状況」。客観的。誰が見てもおなじ世界に見える。つづく三行目、四行目は「客観的(具体的)」ではなく、「主観的」。白無垢を着ている女の主観を書いている。「腹ン中」ということばが、「主観」を突き破る「具体」で、ここがいちばんおもしろい部分。「腹ン中」ということばがなかったら、この詩は味わいが半分以下に減るね。
あ、脱線した。
こういう「対」による飛躍と深みへもぐりこむようなことばの運動は谷川の特徴のひとつだね。
で、これを谷川が書いたとすると、先の「ぼく」「ヒロシ」と同じことがここでも起きていることになる。
「私」は谷川ではない。覚が書いたにしろ、ここで読者が感じるのは、谷川、覚という「固有の肉体」が体験し、思ったことではない。むしろ、「他人」の体験であり、他人の主観である。谷川/覚にとっての「他人」であり、読者(私=谷内)にとっても「他人」。「他人」と「他人」の関係。一般的な「ひと」の関係。
個人の「存在感」とは無関係な何かだ。
繰り返しになるけれど、こういう「他人」を描いているのに、それが「自分の体験(自分の肉体)」として重なってしまうのは、「腹ン中」ということばの力が強い。「腹ン中」ということばがなくても、詩のストーリー(意味)は、そんなにかわらない。「腹ン中」がない方が「透明感」があるかもしれない。意味がストレートになるかもしれない。でも、「腹ン中」があると、ひとは口には出さないが「腹の中」でいろいろなことを思う(思ったことがある)ということを思い出し、「状況」が「結婚式」をのりこえて広がっていく。こういう「解釈」を私は「誤読」というのだけれど、「誤読」することで、より深く「納得」するということがある。
このふたつの部分(詩)から、谷川も覚も、「自分」を前面に出して詩を書いているのではないということがわかる。(この詩が、谷川の書いたものであれ、覚が書いたものであれ、それを受け入れて、「対」になる詩を書くということは、自分を前面に出さなくてもいいということを、二人が暗黙の了解にして、「対詩」を書いているということがわかる。)
だから、というのは変な言い方だが。
これも「個人的な体験」そのものではないのだ。
ちょっとはやりの「現代短歌」みたいな「口語」のつかい方だが、詩だけではなく、他の文学ジャンルにも目を配りながら、「ことばを動かす」ということをしているのだと思う。
ことばは、どう動かせるか。ことばをどう動かしたとき「詩」があらわれるか。
それは、読者を、ことばの動きのなかに、どう誘い込むかということを二人が考えているということだとも思う。
そして、この感覚が、ことば全体の「音楽」の共通性になっていると思う。「自己主張」よりも「他者」が入ってきやすい「音楽」。「他者の音」を拒まない、エッジの抵抗感のない「音」。
「トースト」も「ボイルドエッグ」も自己主張しようとすれば自己主張できるけれど、むしろ「身を引いている」感じのことばだ。「ナプキン」もそうだし、「好きだよ」も。「もの」というよりも、そのまわりで動いている「肉体」を暗示している。
で。
それはそれでおもしろいのだけれど。
私はときどき「むかっ腹」を立てる。「ぼく/私」(谷川/覚)の「表に出てこない」、あるいは「他人を通して自分を表に出す感じ」が嫌いになる。私(谷内)自身を、そういうことばのなかに組み込みたくないときが出てくる。
たとえば、
この「対句構造」から、これは谷川の詩だとわかるのだけれど。
ここに書かれている安直なピカソの定義に、私は腹が立つ。「ピカソは子どもを真似て顔を新発見した」というような言い方、「子どものように描いた」という言い方は、ひとつの「定型」だと思う。私はピカソが大好きなので、こういう「定型」が嫌い。ピカソに関しては、私は私の「定義」を譲れない。
私の「定義」ではピカソは子どものようには描いていない。ピカソの視力、視線の動きはとてつもなく速い。超超超高速度カメラである。スティルカメラが「静止」しか「映像」を定着させるのに対して、ピカソは「運動」を「絵」のなかに押し込む。「運動」だから、そこには衝突や矛盾があるのだが、それを「調和」を超えた「自然」にしてしまう。こういうことは、子どもにはできない。
多くの画家は、世界を「静止」した状態で把握している。目の訓練を、「写実」に近づけようとしている。「静止」のなかで世界を整えようとしている。多くの人の目に「共有」できるものを目指している。「静止/写実」のなかで、自分の「個性」を出すことを企てている。
別なことばで言うと。
どこかで半分くらい「自分(絶対的な個性)」を捨てている。「他人」に受け入れられるものを用意している。
谷川/覚の詩の中に出てくる「ぼく」「わたし」のように、それは「ぼく」「わたし」であって、谷川であり、覚であるけれど、同時に谷川/覚ではないものを多く含んでいる。「他者」を含むことで、「他者」を誘い入れる。
ピカソと、そうではないのだ。「子どもを真似て」というような「枠」で「他人」を誘い入れていない。描きたいものを無邪気に描いたのではなく、見えるものを見えるままにえがいている。絶対写実を実現した。時間を含めた「いのち」を写実したのだ。
ピカソについて書き始めると、とまらなくなりそうなので、ここでやめるけれど。
何が言いたかったかというと。
「対詩」というのは必ずしも「個性」を見せるものではないということはわかるけれど、あまりに「流暢」に「対詩」にしてしまうと、その「流暢さ」に文句を言いたくなるということ。
詩なのだから、もっと他人を拒否している部分があってもいいのじゃないか、と言いたくなってしまう瞬間があるということ。
(つづく、予定)
対詩 2馬力 クリエーター情報なし ナナロク社
*
詩集『誤読』を発売しています。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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「産声にひそむ暗号」という「対詩」のなかに、こういう部分がある。
口げんかしてたヒロシが突然黙った
なぐりかかるかと思ったら
何も言わずにぼくの目を見た
ぼくもヒロシをじっと見た 変な気持ち
泣きたいような 笑い出したいような
この「ヒロシ」とは誰だろう。「ぼく」はこの詩を書いた人。「ぼく」だから谷川か。覚が「ぼく」という人称を借りて、自分の体験を語っているとも読むことができる。
このとき読者は、「ぼく」になり、同時にこういう経験をしたときの相手を「ヒロシ」と思う。いや、「ヒロシ」とは、絶対に思わないね。自分の知っている誰かを「ヒロシ」と仮に名付けることで、「体験」そのものを思い出す。
ひと(個人)よりも、「体験」の方に重きがある。
「口けんかする」「黙る」「思う」「目を見る」「見つめ返す」という「動詞」を自分の「肉体」のなかから引っぱり出してくる。「ぼく(谷川/覚)」と「ヒロシ」の「肉体」を舞台で見るように見るのではなく、自分自身と誰かとの体験を「ことば/動詞」のなかにみている。
「ぼく」は谷川であって谷川ではないし、覚であって覚でもない。「わたし(女性)」かもしれない。「ヒロシ」も「ヒロシ」であって「ヒロシ」ではない。「ヨウコ」かもしれない。
それが誰であっても、「体験」(動詞)が重なる。
これは、奇妙だね。
「舞台(芝居)」では「存在感のある役者」ということばがある。出てきただけで「過去」というか「その人個人の歴史」みたいなものを感じさせる役者。「感情」が何もしないのに、そこに立っている。
そういう「存在感」とは逆のものがある。
「ぼく」は「ぼく」であって、ほかの誰でもない。「ぼく」のことを読者とは思わないでくれ。これは「ぼく」の固有の体験なのだ、というような「主張」がない。
母は泣かなかった 父が泣いた
部長が言った 白無垢が人生をリセットすると
そんなこと出来っこないと腹ン中で思う
私は私をやっていくだけ
この詩は、結婚式のシーンだね。一行目は、よく聞く状況である。二行目も、まあ、結婚式のスピーチらしい。「白無垢」だから「私」は女性か。もちろん、白無垢の女性をとなりにして、男が「ばかなことを言っている」と思っていることも想像できるが、そうすると「部長」とのつながりが悪くなるし、「私は私をやっていく」ともぎくしゃくするから、やっぱり女性。そうすると、この詩は覚が書いた? そう考える方が自然? 女性だから、自分を女性に託して書いた。
いや、違うね。
きのうの谷川の詩の特徴は「対」にある、と書いた。この詩も「対」でできている。一行目と二行目は「具体的な状況」。客観的。誰が見てもおなじ世界に見える。つづく三行目、四行目は「客観的(具体的)」ではなく、「主観的」。白無垢を着ている女の主観を書いている。「腹ン中」ということばが、「主観」を突き破る「具体」で、ここがいちばんおもしろい部分。「腹ン中」ということばがなかったら、この詩は味わいが半分以下に減るね。
あ、脱線した。
こういう「対」による飛躍と深みへもぐりこむようなことばの運動は谷川の特徴のひとつだね。
で、これを谷川が書いたとすると、先の「ぼく」「ヒロシ」と同じことがここでも起きていることになる。
「私」は谷川ではない。覚が書いたにしろ、ここで読者が感じるのは、谷川、覚という「固有の肉体」が体験し、思ったことではない。むしろ、「他人」の体験であり、他人の主観である。谷川/覚にとっての「他人」であり、読者(私=谷内)にとっても「他人」。「他人」と「他人」の関係。一般的な「ひと」の関係。
個人の「存在感」とは無関係な何かだ。
繰り返しになるけれど、こういう「他人」を描いているのに、それが「自分の体験(自分の肉体)」として重なってしまうのは、「腹ン中」ということばの力が強い。「腹ン中」ということばがなくても、詩のストーリー(意味)は、そんなにかわらない。「腹ン中」がない方が「透明感」があるかもしれない。意味がストレートになるかもしれない。でも、「腹ン中」があると、ひとは口には出さないが「腹の中」でいろいろなことを思う(思ったことがある)ということを思い出し、「状況」が「結婚式」をのりこえて広がっていく。こういう「解釈」を私は「誤読」というのだけれど、「誤読」することで、より深く「納得」するということがある。
このふたつの部分(詩)から、谷川も覚も、「自分」を前面に出して詩を書いているのではないということがわかる。(この詩が、谷川の書いたものであれ、覚が書いたものであれ、それを受け入れて、「対」になる詩を書くということは、自分を前面に出さなくてもいいということを、二人が暗黙の了解にして、「対詩」を書いているということがわかる。)
だから、というのは変な言い方だが。
トーストとボイルドエッグとサラダとコーヒー
平らげたあと
ナプキンで口を拭うみたいな言い方だよね
いまの「好きだよ」って台詞
これも「個人的な体験」そのものではないのだ。
ちょっとはやりの「現代短歌」みたいな「口語」のつかい方だが、詩だけではなく、他の文学ジャンルにも目を配りながら、「ことばを動かす」ということをしているのだと思う。
ことばは、どう動かせるか。ことばをどう動かしたとき「詩」があらわれるか。
それは、読者を、ことばの動きのなかに、どう誘い込むかということを二人が考えているということだとも思う。
そして、この感覚が、ことば全体の「音楽」の共通性になっていると思う。「自己主張」よりも「他者」が入ってきやすい「音楽」。「他者の音」を拒まない、エッジの抵抗感のない「音」。
「トースト」も「ボイルドエッグ」も自己主張しようとすれば自己主張できるけれど、むしろ「身を引いている」感じのことばだ。「ナプキン」もそうだし、「好きだよ」も。「もの」というよりも、そのまわりで動いている「肉体」を暗示している。
で。
それはそれでおもしろいのだけれど。
私はときどき「むかっ腹」を立てる。「ぼく/私」(谷川/覚)の「表に出てこない」、あるいは「他人を通して自分を表に出す感じ」が嫌いになる。私(谷内)自身を、そういうことばのなかに組み込みたくないときが出てくる。
たとえば、
眉と目と鼻と口をバラバラにして
ピカソは子どもを真似て顔を新発見した
他人の顔も部品にまで分解すると
自分の顔と変わらない
この「対句構造」から、これは谷川の詩だとわかるのだけれど。
ここに書かれている安直なピカソの定義に、私は腹が立つ。「ピカソは子どもを真似て顔を新発見した」というような言い方、「子どものように描いた」という言い方は、ひとつの「定型」だと思う。私はピカソが大好きなので、こういう「定型」が嫌い。ピカソに関しては、私は私の「定義」を譲れない。
私の「定義」ではピカソは子どものようには描いていない。ピカソの視力、視線の動きはとてつもなく速い。超超超高速度カメラである。スティルカメラが「静止」しか「映像」を定着させるのに対して、ピカソは「運動」を「絵」のなかに押し込む。「運動」だから、そこには衝突や矛盾があるのだが、それを「調和」を超えた「自然」にしてしまう。こういうことは、子どもにはできない。
多くの画家は、世界を「静止」した状態で把握している。目の訓練を、「写実」に近づけようとしている。「静止」のなかで世界を整えようとしている。多くの人の目に「共有」できるものを目指している。「静止/写実」のなかで、自分の「個性」を出すことを企てている。
別なことばで言うと。
どこかで半分くらい「自分(絶対的な個性)」を捨てている。「他人」に受け入れられるものを用意している。
谷川/覚の詩の中に出てくる「ぼく」「わたし」のように、それは「ぼく」「わたし」であって、谷川であり、覚であるけれど、同時に谷川/覚ではないものを多く含んでいる。「他者」を含むことで、「他者」を誘い入れる。
ピカソと、そうではないのだ。「子どもを真似て」というような「枠」で「他人」を誘い入れていない。描きたいものを無邪気に描いたのではなく、見えるものを見えるままにえがいている。絶対写実を実現した。時間を含めた「いのち」を写実したのだ。
ピカソについて書き始めると、とまらなくなりそうなので、ここでやめるけれど。
何が言いたかったかというと。
「対詩」というのは必ずしも「個性」を見せるものではないということはわかるけれど、あまりに「流暢」に「対詩」にしてしまうと、その「流暢さ」に文句を言いたくなるということ。
詩なのだから、もっと他人を拒否している部分があってもいいのじゃないか、と言いたくなってしまう瞬間があるということ。
(つづく、予定)
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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