詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

加藤思何理『水びたしの夢』

2017-10-12 08:58:48 | 詩集
加藤思何理『水びたしの夢』(土曜美術社出版販売、2017年09月20日発行)

 加藤思何理『水びたしの夢』は、読んでいて「いらいら」する部分がある。それが加藤の文体であると言えば、言えるのだろうけれど。
 「碧い眼の物語」の二連目。

眼を上げると、天上を透かして星空が驚くほど間近に迫って見える。
鉄格子の外に立つ生姜色の貧弱な口髭の看守によれば、この独房の天上は死んで生まれた嬰児の角膜を何千枚も縫いあわせて作られているらしい。
だからこそシリウスやペテルギウスやスピカがこんなにも明瞭に見えるのだと、看守はいくらか誇らしげに説明する。

 修飾語が過剰に多い。そのために文の「焦点」が定まらない。私は目が悪いので、この「ちかちか」した感じについていけない。「看守」の描写など、「天上」の描写を妨げるだげだろう。「看守」を書くなら看守を書く。「天上」を書くなら「天上」に意識が集中するようにことばを動かす方がいいと思う。
 この散漫な感じは、それぞれの一行が、読点「、」によって接続していることにも原因がある。加藤は「対比」を狙っているのかもしれないが、読点「、」を折返点にする「対比」は「長々しい」という印象しか引き起こさない。

 加藤は、明快な「散文」ではなく、「散文」の運動を破壊して動くことばに「詩」を感じ、そういうものをふんだんに散りばめたいのかもしれないが。
 でも、私にはこういう「手法」は、単に「散文」が書けないから、そうなってしまったとしか思えない。
 「散文」を鍛えぬいて、そのあとで「散文」を破壊するというところへ行っていない。「詩」を書こうとして、「詩」の独立性、衝撃性を書けないために、「散文」を借りてきて「詩」を浮かび上がらせようとしているとし思えない。
 「散文」に徹した方が、「散文」でしかたどりつけない「事実(詩)」をつかみとれるということを、加藤は知らないようだ。

 もっと意地悪く言ってしまえば。
 「物語(小説/散文)」を書こうとしたが、「散文」の持続力がない。だから「詩」にみえる過剰な装飾で、世界をごまかしている。
 加藤の書いている「過剰な装飾としての詩」は、よく見れば、とても古くさい。言い換えると「常套句」に頼った「過剰装飾」である。
 作品の最終行。

それは冷たいつめたい氷の塊からひと息に削りだしたかのような、途轍もなく碧い眼球だ。

 氷は「冷たい」のが常識である。「冷たいつめたい」と書いたところで、「冷たい」が動くわけではない。加藤だけが見つけ出した「冷たい」があらわれてくるわけではない。「途轍もない」と言われても、その「途轍もない」感じは加藤の意識の中でおわってしまっていて「途轍もない」ということばの外には出てこない。
 だから「常套句」という。
 最終行のなかから「詩」を探し出せば、「ひと息に削りだ」す、という動詞(肉体の動き)だが、これは「ひと息に削りだしたかのような」という「直喩」におさまってしまっている。
 これでは、

死んで生まれた嬰児の角膜を何千枚も縫いあわせて作られている

 が「事実」にならない。
 加藤は、

死んで生まれた嬰児の角膜を何千枚も縫いあわせて作られているらしい

 と二連目で書いていた。その伝聞の「らしい」を「らしい」ではなく「事実」にしていくのが「詩」であり、「文学」であり、ことばの運動だ。加藤は「らしい」にさらに「らしい」を塗り重ねている。塗り重ねることを「技巧」と思っているのかもしれない。
 しかし、「ような」とか「途轍もなく」では、いくら「文学」をトレースしたつもりでいても、「自己陶酔」にすぎない。トレースの域を出ないどころか、トレース以前にもどってしまう。
 「幻想」が「詩」である時代は終わった。いや、古典を読めば「幻想が詩である」という「定義」そのものが錯覚であるとわかるはずである。いつの時代も、ひとは「事実」だけを書いてきている。




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