詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(45)

2019-02-02 09:23:17 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
45 はるか昔

ジャスミンで作られたような肌
あれはたしか八月--八月だったかな?--夜……
思い出せるのはある眼だけ、青い眼だった……
そう、サファイアのような青の色濃い眼だった。

 池澤は、こう書いている。

 15「声」などに似ているが、視覚に頼る方が青春の官能性が強調される。

 池澤の言いたいことがよくわからない。「青春の官能性」がわからない。「官能」を「視覚」に求めるのが青春なのか。それでは「老人」は何に官能を求めるのか。「嗅覚」か「聴覚」か「触覚」か。
 それとも「老人」が「青春」を見つめるとき、老人の「視覚」を「青春」が刺戟する、老人には青春が「視覚」として把握される、ということか。
 しかし、「青い眼」というだけなら、「青春」でなくてもいるような気がするが。

 私は「サファイアのような青(の色濃い)」という部分から、違うことを思い出した。「42 文法学者シリアスの墓」に「ギリシャ語の慣用語法」ということばがあった。この部分は、まさにそれに当たるのではないだろうか。青い眼(濃い青い眼)を語るとき「サファイアのような」と言うのは、ギリシャ人にとってはとてもなじみがあるのではないのだろうか。
 ここから、こんなことも考える。
 私にとってカヴァフィスは「視覚」というよりも「聴覚」の詩人だ。日本語訳でしか知らないのだが、ことばがとても音楽的だと思う。「耳」でことばを記憶し、「耳」で世界を記憶する。つまり「ことば」で記憶する。
 この詩の場合も、実際に「青い眼」を思い出すというよりも、その眼を「サファイアのような青(の色濃い)」ということば、「音」として思い出しているように感じられる。「眼」「青い眼」「サファイアのような青(の色濃い)」とだんだん色の印象がしぼりこまれてくるのは、たしかに「視覚」的だが、もし「視覚」がほんとうに強いならば、いきなり「サファイアのような青(の色濃い)」になると思う。眼を何度も繰り返さない。音を繰り返していく、そこに変化が生まれてくる、そういうことにも「官能性」をカヴァフィスは感じていると、私は思う。
 日本語で読んでも(日本語で読むから?)、最後の二行の音の動きは刺戟的だ。







カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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