詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安藤元雄『安藤元雄詩集集成』(2)

2019-02-04 09:44:43 | 詩集
 安藤元雄『秋の鎮魂』(1957年)からもう一篇。「血の日没」。ここにも海が出てくる。

僕らのためらいの上を過ぎて
鳥たちは海へ奔った
防風林よりも背の高い海へ

死んだ瞳孔を見開いたまま 鳥たちは
めぐるのだ
大きな肉体の内壁のように閉ざされた
触れることのできない空の奥の
古くから刻まれた一つの名前
の周囲を狂おしく

 これは前半の二連。そして二連目の方が「現代詩」っぽい。言い換えると「意味」を求めてことばが自律運動をしている。「意味」はもちろん書かれた瞬間には存在していない。存在していないから、それを探すというより、生み出そうとしている。
 「見開いた」と「閉ざされた」の対比。「空の奥」という空間と、「古くから」という「時間の奥」(このことばは書かれていない、私が勝手に読み替えたもの、誤読したもの)の対比。その「間」を鳥は飛ぶ、つまり「渡る」のだが、実際に書かれることばは「周囲」と「めぐる」である。
 ここには一種の、「まだ見えない」ものが書かれているのだが。
 私はこの部分よりも、一連目の

防風林よりも背の高い海

 ということばが好きだ。「へ」がついているのだが、私は「へ」ではなく、まず「防風林よりも背の高い」という海の描写に引きつけられる。
 実際には海の高さは「0メートル」であり、どんなに低い防風林よりも低い。防風林の方が背が高い。けれども、遠くから海を見るとき、防風林よりも高い位置に水平線が見える。そういう「位置」がある。海に近づくに従って水平線は下がってくる。防風林より背が低くなり(防風林の間から海が見え)、波打ち際に立てば海に人間よりも背が低くなる。
 この「防風林よりも背の高い海」は「僕ら」と海との距離を表している。遠いところにある。けれども、それは「見える」。
 だからこそ「へ」ということばが動く。
 「ここ」ではなく、「遠いところ」、「遠い」けれど「見える」何か。
 「海」ではなく「何か」と書いてしまうのは、見ているのは「海」というよりも「距離」を超えてゆく力だからだ。
 「海へ奔った」のは「鳥たち」ではなく「僕(ら)」の視力、想像力だ。
 一連目の「具象」から二連目の「抽象」への飛躍が、一連目にきちんと書かれている。一連目で整えられた運動が、必然として二連目以降のことばを誘い出している。いや、生み出している。

 「意味」は、三、四連目に書かれているのかもしれない。
 その「意味」を私のことばで語り直すのではなく、この一連目から二連目への飛翔に私の肉体をまかせてみる。ああ、ここに書いてある防風林と海を見たことがあるなあ、安藤がそういう風景を見ながら「鳥」になったように、あのとき私も瞬間的に鳥になっていたのかもしれない、と錯覚する(誤読する)。



*

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池澤夏樹のカヴァフィス(47)

2019-02-04 09:43:33 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
47 テオドトス

おまえの喜びと勝利は長く続くものではなく、
自分が人に秀でているという思いは--何が秀でている?--消滅しよう、
アレクサンドリアで、テオドトスが
血まみれの盆に載せた
ポンペイウスの生首をもたらすその時に。

 引用部分は詩の中程なのだが、ことばのリズムが「論理的」すぎる感じがする。
 「自分が人に秀でている」を「何が秀でている?」と反論(?)したあと、「消滅しよう」と否定する。この否定は、しかもそのあとに「倒置法」のように条件が説明される。そのため、「血まみれの盆に載せた/ポンペイウスの生首」さえも、劇的な感じがしない。「説明」を聞いている感じになる。あるいは「註釈」を読んでいる感じといえばいいのだろうか。

 池澤は、

 この詩におけるカエサルへの呼びかけの手法は25「三月十五日」の場合とまったく同じ。(略)最も強力な対抗者であったポンペイウスの悲惨な最後がカエサルに対する一つの警告であったとカヴァフィスは見ているのか。

 と書いている。
 「歴史」とその「意味」はいつもあとでつくられる。でも、それだけなら、やはりそれも「説明」で終わってしまう。
 「警告」を引き継ぐのではなく、「事件」を反芻するというだけでいいのではないか、と思う。
 「意味」の方が伝わりやすいが、「意味」ならば詩にする必要はない。

おのが人生にあまり自信をもつな。
節制と秩序をこころがけて地面を踏んで歩めば
そのような恐しくも劇的なことは起こらぬ、と思うな。

 「節制と秩序をこころがけて地面を踏んで歩めば」は、ギリシャ的慣用句かもしれない。そこにカヴァフィスのことばのおもしろい部分がある。「ほら、言ったじゃないか」という声が聞こえる。しかし、その直後の「そのような」が「論理的」過ぎる。「恐しく」と「劇的」のことばの積み重ね(追い打ち)のリズムにはあわない。
 現場を目撃しているという感じがしない。 





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