安藤元雄『秋の鎮魂』(1957年)からもう一篇。「血の日没」。ここにも海が出てくる。
これは前半の二連。そして二連目の方が「現代詩」っぽい。言い換えると「意味」を求めてことばが自律運動をしている。「意味」はもちろん書かれた瞬間には存在していない。存在していないから、それを探すというより、生み出そうとしている。
「見開いた」と「閉ざされた」の対比。「空の奥」という空間と、「古くから」という「時間の奥」(このことばは書かれていない、私が勝手に読み替えたもの、誤読したもの)の対比。その「間」を鳥は飛ぶ、つまり「渡る」のだが、実際に書かれることばは「周囲」と「めぐる」である。
ここには一種の、「まだ見えない」ものが書かれているのだが。
私はこの部分よりも、一連目の
ということばが好きだ。「へ」がついているのだが、私は「へ」ではなく、まず「防風林よりも背の高い」という海の描写に引きつけられる。
実際には海の高さは「0メートル」であり、どんなに低い防風林よりも低い。防風林の方が背が高い。けれども、遠くから海を見るとき、防風林よりも高い位置に水平線が見える。そういう「位置」がある。海に近づくに従って水平線は下がってくる。防風林より背が低くなり(防風林の間から海が見え)、波打ち際に立てば海に人間よりも背が低くなる。
この「防風林よりも背の高い海」は「僕ら」と海との距離を表している。遠いところにある。けれども、それは「見える」。
だからこそ「へ」ということばが動く。
「ここ」ではなく、「遠いところ」、「遠い」けれど「見える」何か。
「海」ではなく「何か」と書いてしまうのは、見ているのは「海」というよりも「距離」を超えてゆく力だからだ。
「海へ奔った」のは「鳥たち」ではなく「僕(ら)」の視力、想像力だ。
一連目の「具象」から二連目の「抽象」への飛躍が、一連目にきちんと書かれている。一連目で整えられた運動が、必然として二連目以降のことばを誘い出している。いや、生み出している。
「意味」は、三、四連目に書かれているのかもしれない。
その「意味」を私のことばで語り直すのではなく、この一連目から二連目への飛翔に私の肉体をまかせてみる。ああ、ここに書いてある防風林と海を見たことがあるなあ、安藤がそういう風景を見ながら「鳥」になったように、あのとき私も瞬間的に鳥になっていたのかもしれない、と錯覚する(誤読する)。
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僕らのためらいの上を過ぎて
鳥たちは海へ奔った
防風林よりも背の高い海へ
死んだ瞳孔を見開いたまま 鳥たちは
めぐるのだ
大きな肉体の内壁のように閉ざされた
触れることのできない空の奥の
古くから刻まれた一つの名前
の周囲を狂おしく
これは前半の二連。そして二連目の方が「現代詩」っぽい。言い換えると「意味」を求めてことばが自律運動をしている。「意味」はもちろん書かれた瞬間には存在していない。存在していないから、それを探すというより、生み出そうとしている。
「見開いた」と「閉ざされた」の対比。「空の奥」という空間と、「古くから」という「時間の奥」(このことばは書かれていない、私が勝手に読み替えたもの、誤読したもの)の対比。その「間」を鳥は飛ぶ、つまり「渡る」のだが、実際に書かれることばは「周囲」と「めぐる」である。
ここには一種の、「まだ見えない」ものが書かれているのだが。
私はこの部分よりも、一連目の
防風林よりも背の高い海
ということばが好きだ。「へ」がついているのだが、私は「へ」ではなく、まず「防風林よりも背の高い」という海の描写に引きつけられる。
実際には海の高さは「0メートル」であり、どんなに低い防風林よりも低い。防風林の方が背が高い。けれども、遠くから海を見るとき、防風林よりも高い位置に水平線が見える。そういう「位置」がある。海に近づくに従って水平線は下がってくる。防風林より背が低くなり(防風林の間から海が見え)、波打ち際に立てば海に人間よりも背が低くなる。
この「防風林よりも背の高い海」は「僕ら」と海との距離を表している。遠いところにある。けれども、それは「見える」。
だからこそ「へ」ということばが動く。
「ここ」ではなく、「遠いところ」、「遠い」けれど「見える」何か。
「海」ではなく「何か」と書いてしまうのは、見ているのは「海」というよりも「距離」を超えてゆく力だからだ。
「海へ奔った」のは「鳥たち」ではなく「僕(ら)」の視力、想像力だ。
一連目の「具象」から二連目の「抽象」への飛躍が、一連目にきちんと書かれている。一連目で整えられた運動が、必然として二連目以降のことばを誘い出している。いや、生み出している。
「意味」は、三、四連目に書かれているのかもしれない。
その「意味」を私のことばで語り直すのではなく、この一連目から二連目への飛翔に私の肉体をまかせてみる。ああ、ここに書いてある防風林と海を見たことがあるなあ、安藤がそういう風景を見ながら「鳥」になったように、あのとき私も瞬間的に鳥になっていたのかもしれない、と錯覚する(誤読する)。
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「高橋睦郎『つい昨日のこと』を読む」を発行しました。314ページ。
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「詩はどこにあるか」12月の詩の批評を一冊にまとめました。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
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(3)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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