グザビエ・ルグラン監督「ジュリアン」(★★★★+★)
監督 グザビエ・ルグラン 出演 レア・ドリュッケール、ドゥニ・メノーシェ、トーマス・ジオリア
不気味な映画である。冒頭から、気持ち悪さがあふれてくる。
女性がふたり歩調をそろえて廊下を歩いている。白いスーツと赤いシャツ。ドアを開ける。離婚した夫婦の、親権をめぐる調停が始まる。子供(ジュリアン)の陳述書が読み上げられ、それぞれの弁護士、当人の発言もある。何が真実なのか、わからない。で、そのわからないことが不気味なのではなく、ここに登場する人物構成が非常に不気味なのだ。
裁判官(?)と秘書、夫婦とそれぞれの弁護人。合計六人。でも男は、子供との面会を求める父親一人。あとの五人は女だ。これが、この映画のすべてを語っている。女が世界を支配している。もう、結末は見なくてもわかる。男が敗北する。
予告編にもこの冒頭のシーンはあったのだが、人員構成までは気がつかなかった。だからどんな展開か予測することはできなかった。
不気味さは、ラストシーンであからさまになる。
怒り狂った男が別れた妻のところへ銃を持ってやってくる。ドアにむかって発砲し、家に入り込む。そのとき妻とジュリアンは浴室に隠れる。バスタブに身をひそめ抱き合っている。ジュリアンにしてみれば母親の子宮に帰る感覚か。母親にしても、ジュリアンをもういちど子宮に引き込み、もういちど産み直すという感じかもしれない。
実際に、母親が「もう、終わった。これで解決」とジュリアンに言い聞かせるシーンは、父親が逮捕されたから殺されることはないという以上の「響き」をもって聞こえてくる。
ジュリアンに向かって言っているというよりも、自分自身に向かって言っている。これで夫が暴力的であるということの「証拠」ができた。だれも夫を弁護しない。目撃者がいる。警官が目撃しているし、その前に通報した人もいる。夫と別れることができる。愛人との生活が始まる。子供も手放さなくてすむ。そう自分を納得させている感じがする。
ジュリアンにもはっきりわかったはずである。もう父親のことを完全に忘れることができるだろう。そう信じ込めるように産み直したのだ。--ある意味で、母の書いた脚本通りに物語は進んだのである。夫の性格を把握した上で仕組んだのである。
問題はジュリアンである。
なぜ母をかばいつづけたのか。ときには父親の憎しみをあおるような嘘をついている。姉のパーティーがある。その日は父親との面会日なので、ジュリアンはパーティーに行けない。けれども面会日を変更すれば行ける。父親は同意するが、ジュリアンは母親に「父親が面会日の変更はできないと言っている」と嘘をつく。母親の怒り、母の両親の怒りを父親に向けさせる。そうやって母親の味方をする。
ジュリアンの11歳という年齢が微妙だ。まだ「男」になっていないだろう。母親離れができないない。父親が銃をもっておしかけたとき、「一緒に寝ていい」とベッドにもぐり込む。さらにバスタブの中で母に守られるようにしておびえている。これが13歳、15歳だったら、どうか。きっと反応が違う。
ジュリアンは少年だが、男ではない。女だとは言わないが、男になっていない。つまり、少年もまた「女」に属している。女があつまり、女を守っている。女の主張を通すために、女が団結している。
父親の襲撃を通報する隣人が老女、浴室から出てきても大丈夫だとドア越しにつげる警官が女性なのも、偶然というよりは意図した脚本だろう。
ほんとうのラストのラスト。クレジットが流れ始めてから、かすかに「音」が聞こえる。逮捕されていくときの男があばれている「音」のように聞こえる。フランス人なら「声」も聞き取ることができるかもしれないが、私には「抵抗している男の音」としかきこえなかった。それも非常に小さい音だ。彼の、「妻には愛人がいる」という主張は正しいのだが、それを知っているのは映画の観客だけであり、映画の中では「証拠」がない。「目撃者」がいない。
文学的というか、なんというか。ハリウッドでは絶対につくることのない映画のひとつである。そこに敬意を込めて★1個を追加。
(2019年02月22日日、KBCシネマ1)
監督 グザビエ・ルグラン 出演 レア・ドリュッケール、ドゥニ・メノーシェ、トーマス・ジオリア
不気味な映画である。冒頭から、気持ち悪さがあふれてくる。
女性がふたり歩調をそろえて廊下を歩いている。白いスーツと赤いシャツ。ドアを開ける。離婚した夫婦の、親権をめぐる調停が始まる。子供(ジュリアン)の陳述書が読み上げられ、それぞれの弁護士、当人の発言もある。何が真実なのか、わからない。で、そのわからないことが不気味なのではなく、ここに登場する人物構成が非常に不気味なのだ。
裁判官(?)と秘書、夫婦とそれぞれの弁護人。合計六人。でも男は、子供との面会を求める父親一人。あとの五人は女だ。これが、この映画のすべてを語っている。女が世界を支配している。もう、結末は見なくてもわかる。男が敗北する。
予告編にもこの冒頭のシーンはあったのだが、人員構成までは気がつかなかった。だからどんな展開か予測することはできなかった。
不気味さは、ラストシーンであからさまになる。
怒り狂った男が別れた妻のところへ銃を持ってやってくる。ドアにむかって発砲し、家に入り込む。そのとき妻とジュリアンは浴室に隠れる。バスタブに身をひそめ抱き合っている。ジュリアンにしてみれば母親の子宮に帰る感覚か。母親にしても、ジュリアンをもういちど子宮に引き込み、もういちど産み直すという感じかもしれない。
実際に、母親が「もう、終わった。これで解決」とジュリアンに言い聞かせるシーンは、父親が逮捕されたから殺されることはないという以上の「響き」をもって聞こえてくる。
ジュリアンに向かって言っているというよりも、自分自身に向かって言っている。これで夫が暴力的であるということの「証拠」ができた。だれも夫を弁護しない。目撃者がいる。警官が目撃しているし、その前に通報した人もいる。夫と別れることができる。愛人との生活が始まる。子供も手放さなくてすむ。そう自分を納得させている感じがする。
ジュリアンにもはっきりわかったはずである。もう父親のことを完全に忘れることができるだろう。そう信じ込めるように産み直したのだ。--ある意味で、母の書いた脚本通りに物語は進んだのである。夫の性格を把握した上で仕組んだのである。
問題はジュリアンである。
なぜ母をかばいつづけたのか。ときには父親の憎しみをあおるような嘘をついている。姉のパーティーがある。その日は父親との面会日なので、ジュリアンはパーティーに行けない。けれども面会日を変更すれば行ける。父親は同意するが、ジュリアンは母親に「父親が面会日の変更はできないと言っている」と嘘をつく。母親の怒り、母の両親の怒りを父親に向けさせる。そうやって母親の味方をする。
ジュリアンの11歳という年齢が微妙だ。まだ「男」になっていないだろう。母親離れができないない。父親が銃をもっておしかけたとき、「一緒に寝ていい」とベッドにもぐり込む。さらにバスタブの中で母に守られるようにしておびえている。これが13歳、15歳だったら、どうか。きっと反応が違う。
ジュリアンは少年だが、男ではない。女だとは言わないが、男になっていない。つまり、少年もまた「女」に属している。女があつまり、女を守っている。女の主張を通すために、女が団結している。
父親の襲撃を通報する隣人が老女、浴室から出てきても大丈夫だとドア越しにつげる警官が女性なのも、偶然というよりは意図した脚本だろう。
ほんとうのラストのラスト。クレジットが流れ始めてから、かすかに「音」が聞こえる。逮捕されていくときの男があばれている「音」のように聞こえる。フランス人なら「声」も聞き取ることができるかもしれないが、私には「抵抗している男の音」としかきこえなかった。それも非常に小さい音だ。彼の、「妻には愛人がいる」という主張は正しいのだが、それを知っているのは映画の観客だけであり、映画の中では「証拠」がない。「目撃者」がいない。
文学的というか、なんというか。ハリウッドでは絶対につくることのない映画のひとつである。そこに敬意を込めて★1個を追加。
(2019年02月22日日、KBCシネマ1)