詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

閻連科『黒い豚の毛、白い豚の毛』

2019-08-01 09:52:32 | その他(音楽、小説etc)
黒い豚の毛、白い豚の毛: 自選短篇集
谷川毅
河出書房新社



閻連科『黒い豚の毛、白い豚の毛』(谷川毅=訳)(河出書房新社、2019年07月30日発行)

 閻連科の文体は強烈だ。『年月日』では音の描写に驚いた。今回の『黒い豚の毛、白い豚の毛』にも、ことばによってはじめて生み出された音(詩)がある。

その一時の静寂は、視線を地面に落としただけでもカランと音がしそうなほどで、秋の収穫の香りが駅に流れ込んできただけでも、まるで台風の風が吹き込んできたかのようだった。(「革命浪漫主義」184ページ)

 視線が地面に落ちて音をたてる! 聞いたことがありますか? ことばにしなければ存在しない音。しかしことばになってしまうと、その瞬間から、世界を変えてしまう。「音がしそう」と書いているのだから、実際は「音」はしなかったのかもしれないが、その「しなかった音」が私の「肉体」のなかに残る。そのために世界が違って見えてくる。はじめて見る世界が(小説に書かれているのは私の知らない世界なので、それはもちろん初めてには違いないが、そういう「理屈」ではない、完全に知らなかった世界が)、まるで私自身が見ている世界としてあらわれてくる。
 しかし今回の「短篇集」では、そういう「音」よりも、「匂い」(嗅覚)の方が印象的だ。いま引用した部分にも「秋の収穫の香り」ということばがある。ただし「秋の収穫の香り」というのはあまりにも整えられていて、「肉体」を強くは刺戟しない。(これは、私が「読み慣れてきた」ということの影響かもしれないが。)強烈なのは、たとえば「黒い豚の毛、白い豚の毛」の書き出しである。(7ページ)

 春には春の匂いがあるべきだ。花や草の、青々とうっすらしたのがゆらゆら漂うように。あるいは緑で、濃い馥郁とした香りが鼻を突く。奥まった路地裏のお酒のような。しかし日の入りのこの時刻、呉家坡の人たちは、赤く血だらけの、生臭く濃い血の臭いが尾根の道の方から、紫がかった褐色となって、一団一団まとまって漂ってくるのを嗅いでいた。

 匂い(この場合は、臭いか)は嗅覚を刺戟するだけではない。嗅覚は視覚にも連動し、臭いに色がまじる。肉体を覚醒させる異様な匂いは、色までも異様にさせる。
 一方、「奴児」にはこんな視覚と嗅覚の連携もある。(73ページ)

奴児は木や草を目で見るのと同じように、草の匂いを鼻で見ることができた。草の臭いが見えると、彼女の鼻はヒクヒク動いた。それは他の人には見えず、彼女にしか感じ取ることができないもので、冬に手を握りしめると、手のひらの湿り気が、曇りのときの湿り気なのか、晴れる前の霧の湿り気なのか彼女にはわかるのと同じだった。

 肉体のなかの「感覚」は次々に広がっていく。肉体そのものが覚醒し、世界が新しく生まれてくる。
 ああ、ここに書かれている「世界」へ行って、私自身の「肉体」と「感覚」をもう一度生き直してみたい、という欲望に誘われる。
 閻のことばは、生きる欲望を刺戟する。そういう欲望、あるいは本能を私が生きてこなかったことを教え、私を悔しがらせる。小説なのだから、そこにはストーリーがあり、登場人物の動き(変化)が描かれているのだが、私はストーリーよりも、激烈な感覚の方にひっぱられてしまう。
 しかし、ここに書かれているのは、だれの「肉体」、あるいは「感覚」なのだろうか。主人公のものか。作者のものか。そういう「分析」は必要かもしれないが、私はそういうことを忘れてしまう。ただ生々しい「肉体」に揺さぶられる。
 で、この日本の作家からは感じることのできない強烈な「肉体感覚(感覚器官の覚醒)」に触れ続けていると、ふと違ったことを考えるのである。

 ストーリーは、ある意味では登場人物(主人公)の「意味」である。ひとはだれでも自分なりの「意味」を生きている。
 一方、ことばを考えると、(ことばを見つめなおすと)、そこには「意味」があるのはもちろんだが「意味」でないものもある。簡単に言えば「音」がある。
 でも。
 中国語の場合(私は中国人ではないので、あくまで私からみた印象を書くのだが)、ことばを書き残すときの「文字」(漢字)は「音」であるのはもちろんだが、何よりも「意味」である。一文字一文字が「意味」を持っている。日本語の場合、「ひらがな」は「意味」を持っていない。意味はことば(音)を重ねてつくっていかなければいけない。けれど中国語(漢字)は、「意味」をつくる前に「意味」が存在してしまっている。
 これはとても「苦しい」ことではないだろうか。「肉体」がつねに「意味」に縛られていることにならないだろうか。もちろん「文字/漢字」を覚える前に、ことばは耳から入ってくるから、「音」の方が優先するのだと思うが、その「音」はすでにそれを発する大人の知っている「意味」を強く含んでいる。「音」は単独では存在しない。
 閻は、こうした「意味」の束縛をたたきこわしながらことばを動かしている。中国語を作り替えている。小説を書くというよりも、中国語そのものを「意味」から開放し、「肉体」としてつくりなおす。そういうことをしていると思う。
 「意味」はまた「抽象」と言いなおすこともできる。中国語(漢字)は、それに触れたときから人間を「抽象」にしてしまう。ととのえる、と言いなおせばいいだろうか。鍛えるというよりも、ある「形」のなかに閉じ込める。このことは「日本語の文学」のことを考えるとわかりやすい。(私が日本人だから、勝手にそう思うのかもしれない。)日本語は表記の際、「漢字」を利用した。「漢字」と「ひらがな」を組み合わせることで「文学」が広がっていった。「ひらがな」の「音」だけの世界を、「漢字」のもっている「意味」がととのえる。感情を「意味」に整理していく。「知性」にかえていく。万葉から古今(新古今)への大きな変化には、「漢字」と「ひらがな」の「融合」が影響しているのではないか。漠然と(つまり、いきあたりばったりに)、私はそんなことも思う。
 で、閻のやっているのは、「抽象」によって「美を完成させる(ととのえる)」ということとは逆のことだと思う。「具体」(たとえば、嗅覚、聴覚)を覚醒させることで、いままで存在しなかった「美」を出現させる。「抽象」によって抑え込まれていた「リアリティー」を復活させる、ということではないだろうか。
 だから、と私は、私に引きつけていうのだ。閻の小説は「ストーリー」があってもストーリーなんかに「意味」を求めてはいけない。「ストーリー」はことばを動かすための「方便」。閻のことばはストーリーから逸脱した部分にこそパワーがある、と。



 ちょっと余談。以前、楊克『楊克詩選』(竹内新編訳)(思潮社、2017年04月30日発行)を読んだ。そのことをブログに書いた。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/598535ebfffe3c5e520fad1d5b49b7f8
 そのとき、「対句」がとても印象的だったので、そこから中国人は「対句」が好きだ。偶数が好きだ。そして「1+1=2」が最大の数で、2を越えると無限になる、ということを感じとった。
 「道士」という作品に、少しこれと似ていることばが出てくる。(212ページ)

道教の言葉の対聯には「一が二を生み二が三を生み三が万物を生む。有は無のため無は有のため無が有ることで有が無い」とあった

 私はこのことばを知らなかったが、私が楊克『楊克詩選』で書いたことは、ある意味で「当たっていた」と感じた。私は「三」にまで思いが及ばなかったが、中国人が数を数えるのは「1+1=2」までなのだと確信した。(あとは無意識=肉体の処理ではなく、あくまで計算、数学の理性的処理だ。)

 で、このことを書いたのは。
 漢詩というのは、私の印象では、非常に洗練された世界、知性がことばを支配している世界だと思う。感覚も描かれているが、まず「意味」が完成されている。「意味」にあわせて感覚が動いている。「意味」だけでなく感覚を刺戟する詩が印象的なのは、中国人はそれだけ「漢字の意味」に縛られ、そこから逃れたがっているということかもしれない。そういう点から見れば、閻の小説のことばは、「新しい漢詩」の出現だとも言える。



*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(74)

2019-08-01 08:00:50 | 嵯峨信之/動詞
* (近づけば)

なぜその幻は消えるのか
高層ビルの窓ガラスを染める千の夕日

 「幻は消える」を書きたかったのか、「高層ビルの窓ガラスを染める千の夕日」を書きたかったのか。たぶん、後者である。「幻は消える」は言い古されたことばだろう。それを「高層ビルの窓ガラスを染める千の夕日」という一行で洗い直す。
 「千(せん)」という漢語の響きが強烈だ。
 「高層ビル」は「一つ」、「夕日(太陽)」も「一つ」なのに、窓ガラスのなかで「千」になる。しかし、近づくと「千」は消える。「千」は具体的な数ではなく「抽象」である。だから、書かれていない「一つ(抽象)」も「千」のなかにある。
 それは嵯峨がまた「一つ(ひとり)」であることをも語っている。




*

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