詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中島悦子『暗号という』

2019-08-24 18:25:08 | 詩集
暗号という
中島 悦子
思潮社


中島悦子『暗号という』(思潮社、2019年08月22日発行)

 中島悦子『暗号という』を読みながら、私は、木下順二が死んだとき『子午線の祀り』を読み直したことを思い出した。「過去」がふいにやってくるのか、それとも私たちが「過去」へふいに行ってしまうのか。「時間」は、それが「いつ」であれ、人間のそばにある。「物語」から聞こえてくるのは、だれの声だろう。
 「回転」という詩の書き出し。

隣家の洗濯機の音
静寂の中に
薄暗い戸口はあらゆるところにあって
その一軒一軒に洗濯機が回っている

 「あらゆるところ」と「一軒一軒」は、どう違うか。書かれていることばの順序とは逆に「一軒一軒」に「戸口」があり、その「ある」ということが「あらゆるところ」であると思う。「過去-現在-未来」という時間の形式的な順序と実際に想起する「時間」が無関係なように、「一軒一軒」と「あらゆるところ」の関係も流動する。

静寂も時折回転しながら
おむつを洗っているのだ

 「おむつ」でなくても洗濯機は洗うが、「おむつ」が選ばれたときから「時間」(過去)が噴出させるものが違ってくる。「無防備」が「無防備」のまま動き出す。「おむつ」は「おむつ」ではなく、「無防備」を生きるものの比喩である。「運命に翻弄されるものの比喩」かもしれないし、あるいは「運命」そのものの比喩といってもいい。
 人間は、こういうものに「物語」を与える。あるいは「物語」に閉じ込める。そのとき、そこにほんとうに「ある」ものは「もの」ではなく、運動である。運動の中に「時間」が整理されていく。逆ではない。逆であったとしても、最後に残るのは運動である。

澄んだ水に攪拌されている
模様は藍色
白夜のみずうみのように
寂しい一日の
早朝や真夜中に限って

私は目を閉じて寝返りを打つ
今時どの家にも赤ん坊がいて
泣き声は聞こえないのに
おむつの乾くことがないなんて
もの悲しい町
ここは

一軒一軒の洗面所の窓を
尋ね歩く
残響のやまない耳をすませて

 最後の「すませて」は「澄んだ水」につかわれている「澄む」という漢字をあてることができるかもしれないが、中島は「すませて」とひらがなを選んでいる。私は、そこに、あえて「住ませて」という違う漢字をあててみる。「棲ませて」でもいいかもしれない。「肉体」から「耳」だけをとりだして、意識を「澄ませる」のではなく、「肉体」の中に「耳」をもう一度「住まわせる」。
 いま、ここに「平家物語」を「住まわせる」ように。いま、ここに「過去」を「住まわせる」ように。
 「すませて」と「すまわせて」は違うのだけれど。
 この「違い」は、しかし、いま、この詩を読んでいる私には「薄暗い戸口」であって、それは「あらゆるところ」へつながっていこうとしている。

 あらゆることばは、ことばを言いなおすためにある、と私は考えるが、どうせ言いなおすなら、よりいっそう「無防備」になるために言いなおしたいと思う。
 で、私は「回転」が好きなのだ。
 「暗号」もいいが、

はさみで切り抜くことのできない形は

ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい

蕎麦緒口を集める
誰が口をつけたのか分からない
裏底の偽刻印の
古い文字は隠されて
死児に憶えさせようとすること

コウゾの根を抜く
わが神経を抜くように

二〇〇一年は み だった

 「二〇〇一年は み だった」かどうか、私は「真偽」を知らない。しかし三連目に書かれている「偽」の文字、そして「死」が、それを「偽」であると告げることで、「偽」を「真」に変えてしまう。「偽」でなければ「真」にはなりえない。
 それが「暗号」の運命かもしれない。
 ここには時里二郎とも高柳誠とも違うもうひとつの「虚構」があるといえるかもしれないが、私は「深入り」したくない。「平家物語」(古典)には近づかず、「薄暗い戸口」ちかくの「洗濯機」という「現実」にとどまりたい。
 「暗号」は解読するのではなく、誤読して楽しみたい。私はいつでも「答え」が嫌いだ。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(94)

2019-08-24 09:46:06 | 嵯峨信之/動詞
* (一方から他方へ)

ぼくを移動させる透明な車がある

 「透明な」は「見えない」。「ある」は嵯峨が「ある」という状態にさせている。想像力が「ある」を生み出す。

どこにもない国へつれていつてくれる〈時の車〉だ

 「時の車」ならば、つれていくのは「どこ」というよりも「いつ」になる。「時」はふつう過去から未来へうごいているととらえられている。しかし嵯峨の「時の車」は「過去」や「未来」へゆくわけではない。「どこにもない」時間へと嵯峨を連れて行く。
 「時」がある方向へ(一方から他方へ)動く前の「時」という概念のなかへ。







*

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