詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「れいわ」と「少女像」の問題

2019-08-04 21:41:43 | 自民党憲法改正草案を読む
「れいわ」と「少女像」の問題
             自民党憲法改正草案を読む/番外279(情報の読み方)
(以下は、フェイスブックに断続的に書いた文章です。重複がありますが、整理する時間がないのでそのまま書いておきます。)

名古屋での「少女像」展示中止について。
社会が「複雑さ」を人が抱え込まなくなった。
民主主義というのは、複雑で、面倒くさい。
いちばん面倒くさいのは、他人の意見を聞き、自分の意見との違いを理解し、そのとき自分が何をし、何をしないかを決めなければならないことだけれど、最近はその面倒くさいことを省略する人が増えてきた。
憲法には表現の自由が保障されている。
これは表現の自由を侵害するものがあったら、その表現が権力にとって不都合なものであっても、権力は被害を受けている人を守らなければならないという意味に私は理解している。
これは権力にとって、とても「面倒くさい」ことである。
自分を守るよりも、「法」という普遍を守ることを優先しないといけないからだ。
しかし、権力が本来しなければいけないのは、そういう「面倒くさい」ことなのだ。
権力にとって都合の悪いことをいう人間も「国民(市民)」なのだから。
そして国民はいつでも権力(政権)を交代させる権利、大げさにいうと「革命」を起こす権利を持っているのだから。
でも、日本の権力は、権力批判を含む表現の自由を保障しようとはしない。権力にとって都合のいい表現だけを守ろうとしている。
とても「単純化」している。
権力が「複雑さ」を放棄している。
民主主義を放棄している。
そのことを象徴する事件だと思う。
「単純化」は小泉時代から加速し始めたのだと思う。
安倍が、それに拍車をかけている。
韓国は日本を批判している、だから「敵だ」、という「単純化」された意識が急速に広がっている。
政権がはじめた「敵か味方か」という二者択一作戦が、あらゆることを歪めている。

ほかのページで書いたことだけれど、自分のページにも書いておく。
あるひと(Aさんとしておこう)が、名古屋で起きた「少女像」の展示中止に触れて、会場は税金でつくられたものだから、規制はあって当然というようなことを書いていた。
しかし、これはまったく逆だと思う。
税金でつくられた場所なのに、そこを利用するとき、ある作品は展示できるか、別の作品は展示できないというような制限があってはならない。
「税金」と「表現の自由」は別問題であり、「税金」はいたるところにつかわれている。美術館などの建物だけではない。
たとえば道路建設にもつかわれている。
道路で、「安倍やめろ」というデモをすると、「道路はデモをする場所ではない。安倍を批判するための場所ではない」といって、デモを排除できるか?
あるいは「少女像」をもって歩道(公道)をあるいているひとを拘束できるか?
さらに極端な話、国道を人を殺す目的で走っているからと言って、その人を逮捕することはできない。親の危篤を聞いて急いでいる人も、いま急がないと3億円強奪に間に合わないと思っている人も、税金でつくられた国道や高速道路を同じようにつかえる。
その国道を利用して、そのひとが何をしたか(するか、ではない)。したことの結果によって、その行動があとから罰せられるということはあっても、何を思っているか、は取り締まってはならないし、そんなことはできない。
ある表現が、政府にとって不都合である(政府を批判するものである)からと言って、その表現を妨げてはいけない。権力は、権力にとっての不都合な表現も、その表現の自由を保障しなければならない、というのが憲法の精神だ。
Aさんの書いていることとは逆に、たとえばAさんが美術館を持っていたとして、Aさんに「少女像」の展示をしたいので100万円で貸してほしいと実行委が言ってきたとき、Aさんが拒絶しても、それは「表現の自由」を侵害したことにはならない。「検閲」にもならない。AさんはAさんで、どういう表現をしたいか(どういう作品を紹介したいか)という意図があるだろうし、それによって儲けるという権利もあるわけだから。
公共の場所(税金でつくられている場所)なのに、ある表現は許す、ある表現はだめというのが「表現の自由」の侵害であり、
権力の暴力、検閲なのだ。

(得平秀昌 さんのコメント
Aさんの論理は論理にもなりません。
しかし、冷徹な自己検証なしの理屈で納得してしまう(私も含め)そういう時代になってしまった。
それがなにより悲しい。
もう多くの人が○×の世界に生きています。
思索する力の重要性をもっと学校教育の中に採り入れないと、日本の未来はないですね。)

いろいろなことが「二者択一」になっている、というのが腑に落ちないですね。
そして、最近の風潮として、その「二者択一」に「国か個人か」がのさばっているのが恐ろしい。
「国のために個人が何ができるか」を問いかける声が多くなってきている。
ケネディが「あなたの国があなたのために何ができるかを問わないでほしい。 あなたがあなたの国のために何ができるかを問うてほしい。」と言ったけれど(それを聞いたときは、私はまだ小学生で、「かっこいい」くらいのことしか思わなかった)、この有名な演説は多角的に読み直してみないといけないと思う。
いまの日本の状況で、この「演説」を誰かがしたとしたら、私は、それに同意しない。
国は「個人」を守るためのものであって、その逆ではない。
「個人」は単に国に守られるものではなくて、国を問いただすこともできるし、国を別な形に変える権利も持っている。
国は、国の方針に反対の人間も国民として守る義務を持っている。

得平さんが書かれていますが、私も、教育の基本は、「正しい」と言われていることに疑問を持つこと、常に自分で考える力を育てることだと思います。
「1+1=2」はだれでも教えることができる。
でも「1+1=2ではないかもしれない」と考えさせることを教えるのは、とてもむずかしい。
「1+1=2」は、採点するときは便利だけれど、どんな世界も「採点」によって成り立っているわけではない

名古屋での「少女像」展示問題、れいわの障害者2人への対処問題。ふたつはかけはなれているようにみえるが、ある一点から見ると同じである。
批判に共通するのは、「自腹」でやれ、という主張だ。
表現の自由を主張するなら、税金でつくられている公的施設ではなく、自腹を切ってやれ。これは、自分の意見と違うひとが自分の税金がつかわれている施設をつかうのは許さないという考えである。
れいわの2人に対しても、国会議員活動をしたいなら自腹で介護者を雇え、国会の改修や介護者の確保に税金がつかわれるのは許さないという考えだ。国会議員は、国民が選んだひとであることを無視して、自分の考えと違うから、ふたりのために税金をつかうな、と主張していることになる。
この主張は、2012年の「自民党改憲草案」の考え方にとても似たところがある。
現行憲法13条では、個人の権利は「公共の福祉に反しないかぎり」それを尊重すると書かれている。
改憲草案は「公共の福祉」を「公益及び公の秩序に反しないかぎり」と書き換えている。
「公益」って何? なぜそこに「(利)益」ということばが出てくるのか。「金」に関連することばがでてくるのか。
「税金」でつくられた施設での使用は、「公の利益」につながるものでなければ許さない。「公の秩序」について疑問を投げかけるものであってはならない。
そういう意見が絶対に出てくる。
そして、今回のふたつのことがらでは、「税金」をそういうことろにつかうのはおかしいという声が出ている。
多くのところで「自民党改憲草案」の先取りがおこなわれている。

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ジル・ルルーシュ監督「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」(★★)

2019-08-04 16:45:04 | 映画
ジル・ルルーシュ監督「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」(★★)

監督 ジル・ルルーシュ 出演 マチュー・アマルリック

 予告編を見たとき、「フランス版フルモンティ」かなと思った。そして、そんな気持ちで映画館へ行ったら、「シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢」をイギリスでリメイクするらしく、その作品の予告編をやっていた。「中年落ちこぼれおじさんコメディ」ならイギリスにまかせておけ、ということらしい。
 たしかに、そうだろうなあ。
 フランスの何がいけないのか。簡単に言えば「ことば」である。
 いや、イギリスもことばの国ではないか。
 そうなのだけれど、ことばの性質が違う。イギリスはシェークスピア、劇の国。フランスにも劇はあるが、フランスのことばは劇ではなく「哲学」。
 「劇」と「哲学」と、どう違うか。劇は対話。人と話す。つねに「他人」によって「異化」される。そして、その「異化」を効果的にするためには、自分を語るときもみずから自分を異化する。客観化。ユーモア。笑い。ことばは「もの」のように、そこに存在する。人間のものなのに、人間から独立して、「人間像」ならぬ「ことば人格」のようなものを浮かび上がらせる。
 哲学は独白。奇妙な言い方だが、ことばは「肉体(個人)」とは別のところにあって、それが「個人(肉体)」のなかにしみ込んできて、「人間」をつくる。
 劇と哲学では、ことばの動き方、人間から出て行くか、人間に入ってくるかという違いがある。
 それを象徴するシーンがある。車椅子のコーチに叱責されながら、体力をつけるために男たちが走っている。もう、限界。走れない。そのときそのコーチとかつてペアを組んでいた女性が言う。
 「語りかけなければ、つぶれてしまう」
 「語りかけるって、何を?」
 タイトルは忘れたが、ここで金髪の女は「本」を読み始める。すでに完成されたことば。もしかするとフランスでは誰もが学校で読まされたことがある本かもしれない。そのことば(哲学)がおじさんたちの「肉体」のなかへ入ってゆき、肉体を支える。思考の「よりどころ」になり、それがつっかい棒のように男たちを支える。
 笑ってしまうが、ここにフランスの「庶民の思想(肉体)」がいちばんくっきりと出ていると感じだ。これだからフランス人は「面倒くさい」んだよなあ、と思う。
 で、それが冒頭の「四角の穴に丸は入らないし、逆もまた真」というようなことば(哲学)があって、最後には「四角の穴に丸は入るし、逆もまた真」という「哲学」として反復される。
 一方、イギリスはどうか。シェークスピアはどうか。(と、ここでシェークスピアをもちだしてもしようがないのかもしれないが)。シェークスピアは「本」からことばをひっぱってこなかった。巷で庶民が話している「口語」をひっぱってきて、音とリズムをととのえた。「哲学」というよりも「暮らしの智恵」を持ち込むことで、登場人物に「過去」を与えるのだ。「自分」を語るときも、そうやって「自分を他人にしてしまう」のだ。「自分ではなく他人」だから、それを否定するのも楽しいというような、なんとも奇妙な「笑い」が生まれる。どうせ他人だもん、と思っているフシがある。
 あ、くだくだと映画とは関係がないことを書いてしまったか。
 映画に戻ると、何といえばいいか、登場人物がみんな「自分」をとっても大事にしている。自分を「笑う(突き放す)」ためではなく、自分を「守る」ためにことばを必死になって探している。古いことばで言えば「自分探し」だね。わかりやすいといえばわかりやすいが、こんなにたくさんの人間が「自分探しごっこ」をするのを見続けるのは、ちょっとげんなりするなあ。
 クライマックスのアースティックスイミング(かつてはシンクロスイミングと言った)のシーン。映画だから許せる「反則」がうまくつかわれている。重要な部分は「吹き替え」だが、それがばれないように(わかりにくくするために)、特別の照明をつかっている。オリンピックなどの競技会では照明は選手の動きがはっきり見えるように会場を明るくしている。この映画のようには絶対にしない。つまりこの映画は「嘘」を映像にしているのだが、映画はもともと嘘なんだから、これでいい。ここだけは、いかにもフランス人らしい「ずるい」方法だなあ、と感心した。
 さて、イギリス版は、どうなっているか。比較してみるのは楽しいかもしれない。
 (KBCシネマ2、2019年08月04日)

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(77)

2019-08-04 09:00:37 | 嵯峨信之/動詞
* (言語の国の住民たち)

雷雨に襲われて蜘蛛の子を散らすように逃げだした
そこは日ましに強い日照りの油地獄が待つているところとも知らずに

 人間は「知らずに」行動する。
 いや、「逃げる」ということは知っている。知っていることは「逃げる」ということだけだから、その「知っていること」をやる。
 そのために、複雑になる。
 何が? 
 人間というものが。つまり「ことば」が。

 こういうことを考えるとき「蜘蛛の子を散らす」「日照りの油地獄」という耳慣れたことばが侵入してくる。それは「知っている」ことばだからだ。ここにもことばの複雑さがある。知っていることばしかひとは動かせない。「わかっている」のはことばにならない何か、肉体を貫く「本能」のようなものなのに。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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