詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(88)

2019-08-15 11:29:15 | 嵯峨信之/動詞
* (かれは描いた)

風のゆくえ 水の姿 愛の終わりを
ぼくは遠望した

 詩はつづいているのだが、ここで断ち切ってみる。
 「風のゆくえ 水の姿 愛の終わりを」ということばを挟んで「かれと「ぼく」が向き合う。向き合うという形で「ひとつ」になる。いや、このときの「向き合う」は正確な表現ではない。並んで「ひとつ」の方向を見る。「方向」が「ひとつ」なのだ。
 「ひとつ」であることを確認した上で、ことばは、言いなおされる。

炎と影とがもつれあつて真昼の野をゆくのを

 「ゆくえ」は「ゆく」という動詞でかさなり「ひとつ」になっている。「ひとつ」は「もつれあう」という動詞でも繰り返されている。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)


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表現の自由(憲法と法律)

2019-08-15 07:52:33 | 自民党憲法改正草案を読む
表現の自由(憲法と法律)
             自民党憲法改正草案を読む/番外282(情報の読み方)

 終戦記念日、あるいは敗戦記念日。思うのは「日本国憲法」のことである。とくに「表現の自由」について思うことがいろいろある。私は、自分の思っていることを自由に書きたいと願っている。だから「表現の自由」がどう変質していくのか、そのことが気がかりだ。憲法に関心を持ったのも、「2012年の自民党改憲草案」で「表現の自由」がどう保障されているか、が気になったからだ。そのことは、「詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント」という本に書いたので省略。きょう考えるのは、最近起きた「表現の自由」をめぐる動きだ。
 名古屋で開かれていた展覧会が中止された。「慰安婦」問題を訴える「少女像」に名古屋市長が不快感を示し、撤去しろと命じたことが原因だ。名古屋市長の行動は、憲法に保障された「表現の自由」を侵害するものであり、「検閲」である。名古屋市長にできるのは「少女像に不快感を覚えた。しかし、それが展示される権利は保障する」ということであり、展示を禁止するというのは権力の濫用である。
 このことに対して、ネットでいろいろな意見が交わされたが(まだつづいているが)、2点、気になる意見があった。

①人に不快感を与えるものも芸術なのか。裸になって性器をさらしたり、うんちをしているところを展示しても「表現の自由」なのか。

 こうした意見は非常に多い。こうした意見のいちばんの問題点は「憲法」と「法律」をごちゃ混ぜにしていることだ。
 憲法は、国家を拘束するもの。つまり、国家(権力)に対して、個人(国民)の「表現の自由」をおかしてはならない、「検閲」してはいけない、というもの。
 個人に適用されるのは、憲法ではなく、法律である。
 「憲法」と「法律」は、どう違うか。いちばん簡単な定義は「憲法第12条 日本国民樽要件は、法律でこれを定める」と書いてある文章だ。「憲法」と「法律」は別のものであって、その関係は「憲法」が上、「法律」がその下にある、ということ。
 で、①の主張にもどると、「裸になって性器をさらす」というのは、たぶん「猥褻物陳列」に関する法律で取り締まられる。公の場所でうんちをしているのを公開するということには「公衆衛生」に関する法律が適用されるかもしれない。具体的なことはわからないが、そういう行為は「表現の自由」の問題ではなく、「法律」で取り締まる問題である。
 なぜ、そういう「法律」ができたかというと、私の見方では「憲法13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」が関係している。
 「公共の福祉に反しない限り」、(表現の)自由追及に対する国民の権利は保障される、と読むことができる。「公共の福祉」というのはわかりにくいが、判断力の形成されていない子供にわいせつなものを見せると悪影響を与える。子供の教育に、悪影響を与えるというようなことが「公共の福祉(助け合い)」に反するのかもしれない。子供は社会の宝だからね。(うまく説明できないが、なんとなく、そんなことを思う。)トイレ以外でうんちをする、それを見せるというのは、衛生上よくない。これは完全に「公共の福祉」に反すると思う。
 「法律」はたいていの場合、「公共の福祉」を守るために、個人の行動を規制しているのだと思う。そして、「裸になって性器をさらしたり、うんちをしているところを展示する」という行為を取り締まるには「憲法」を必要としない、ということだと思う。

②名古屋市長は、展示されている作品を見て判断したのである。展示が先にあり、そのあとで作品を判断している。だから「検閲」にあたらない。「検閲」には「事前検閲」と「事後検閲」がある。名古屋市長の行為は「事後検閲」であり、憲法に規定しているのは「事前検閲」なのだから、憲法違反にならない。

 表現者の側からみると、この論理は納得ができない。
 「表現」というのはいつでも完成しない限り「公開」できない。つまり「事前検閲」「事後検閲」というのは名目上の区分にすぎない。いつの段階で権力が介入してくるかではなく、権力が介入してくるかどうかが問題なのだ。
 たしかに展示会や出版などでは、事前にその作品を見ることができる。そして「公開にふさわしくない」と判断することもあるだろう。これは商売になるかどうかの、展覧会主催者、出版社側の判断だろう。権力は、そんなことをいちいちしている余裕がない。物理的に「事前検閲」というのは不可能だ。よほど、最初から「狙い」をつけていれば別問題だが。(いわゆる、公安の監視、ということになる。)
 一方、公開されたものに対して、公開を差し止め、禁止するということもある。ただし、そのときは公開された作品に対して「法律」が適用される。法律を適用するという手続きを踏まない限り、「検閲」になるだろう。権力の濫用になる。名古屋市長は少女像の展示が「公共の福祉に反する」と告発する、裁判に訴えるという手続きが必要だ。そして、裁判の結果を適用しないといけない。

 法律を適用し処理できることを、法律を適用せず、権力にまかせて処理してしまう。憲法違反がおこなわれている。
 名古屋市長は憲法と法律の関係を理解していないのだ。
 8月15日は戦争の犠牲者を思うと同時に、憲法のことを考える日だ。

 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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