詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(81)

2019-08-08 08:49:15 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくが小さな水溜りになると)

 「そこに自分の生を映すこともあろうか/風が吹けば顫え/夜がくれば瞼を閉じる」と美しくはじまる詩。覗き込みこむことは、覗き込まれること。その交錯する動きが魅力的だ。
 後半、ことばのリズムは転調する。

明日はかならずそこにだれかがくるだろう
時の空地にはいまだれの姿もなくひとすじの道だけがある

 「明日」は「時の空地」と言いなおされている。厳密には「明日」になるまでが「時の空地」かもしれないが、「かならず……するだろう」という期待は裏切られるためにある。「やっぱり……しなかった」は絶望であると同時に予感が的中してしまったと感じるような、妙な安心感がある。
 これは「ひとすじの道」に似ている。けっして消えない「真実」のようなものである。「敗北」の感覚が「抒情」をととのえ、支える。









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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