詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(79)

2019-08-06 10:48:31 | 嵯峨信之/動詞
* (小さな詩句は)

環のなかの一つの数珠玉がゆつくりとりはずされる

 何のために? これに先立つ行に、こう書いてある。「いつも夢のなかへ帰りたがる/ただ一つの大きな詩に集まろうと」。
 「とりはずされる」は数珠玉の「意思」ではない。「集まろうとする」ものは「意思」をもっている。だからここには意思をもっているものと、意思をもっていないものが動いていることになるのだが、どうしてそういうことが可能なのか。
 意思をもっているけれど、意思どおりには動けない。その悲しみを知って、だれかが意思をかなえてやるために手助けをする。たとえば「数珠玉」を「環」から「はずす」。
 「はずす」には解放するという意味もあるだろう。解放されたものは、自由に動く。そこにはかならず新しいものがある。それを詩と呼ぶことができる。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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