詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月遊馬『もうあの盛りへはいかない』

2019-08-28 09:32:30 | 詩集
望月遊馬『もうあの盛りへはいかない』(思潮社、2019年07月30日発行)

 望月遊馬『もうあの盛りへはいかない』には「散文形式」と「行分け形式」の作品がある。「散文」で書かれたものについて書きたいのだが、どこを引用しようか迷っている。言い換えると見分けがつかない。望月の「散文」が事実を「ととのえる」というよりも、事実を「まきちらす」性質のものだからだ。
 ことばは「現実」ではない。だから、どうしても事実をとりこぼしてしまう。ととのえればとのえるほど、それは実感している現実からは遠くなる。こぼれおちたもののなかにこそ真実があるという後悔が「散文」のなかには隠れている。隠れているだけではなく、くやしがって暴れている。これを救済するには、ことばをととのえるのではなく、こぼれかけたものを内側から強い力で押し出す、噴出させる以外にない。
 そういう思いで書かれたことばだと読んだ。

 で、ぱっと開いたページが12ページだった。

少年が蛾の群れに囲まれて発狂する。混濁した老父が芙蓉の木のしたで人骨を
処理する。老父は遅滞だが、蛾の群れがいっせいに視界を埋めつくすとわたし
の胸にそろそろと芽をだす木の存在がある。こずえのむこうで僕の胸が割れる。
「八月の温室で起こされた火事は僕のなかのないはずの瓶のなかでしずかに布
団をしいていった。」ヴァイオリン弾きが僕の眼球のなかでキャッチボールを
している。それは僕のすべてを奪って眼には投手の姿が浮かんで消えた。

 「少年」と「老父」「わたし」「僕」は、「蛾」「(芙蓉の)木」「ヴァイオリン弾き」「投手」という「対象」と向き合う。「少年」「老父」「わたし」「僕」はひとりの人間の別の呼称(そのときぎきの呼称)であるかもしれないし、別の存在かもしれない。「木」「ヴァイオリン弾き」「投手」も個別の存在かもしれないし、ある瞬間瞬間の「比喩」かもしれない。「対象」というもの、あるいはそれを認識する「人間」というものよりも、ことばは「人間存在」から「別の人間存在」へと動き続けるもの、「対象」はその動きにあわせて選択される「現実」の瞬間的事実ということになるのだろう。
 こういうことばの運動において「存在する」と明確に指摘できるのは、「ことばを動かすエネルギー」があるということだけだ。このエネルギーと、どう向き合うべきか。
 「僕のなかのないはずの瓶のなか」ということばのつらなりを手がかりにして、望月のことばは「なか」というものにこだわっている、ということができる。「なかのなか」という入り子細工の構造がそれを強調している。「なか」は「内面」であり、「精神」であると言い換えることもできる。つまり、ことばは「客観(事実)」から出発して動いているのではなく「抽象」を土台にしている。しかも、その「抽象(なか)」は「ない」のだ。「ない」からこそ、さらにその「なか(なかのなか)」をつくりだしていかなければならない。実際にそういう運動をくりかえすことで、「なか(ないもの)」のなかから「ある」を噴出させている。
 これはこれで楽しいのだが、私は手放しで楽しいとはいえない。「好み」の問題になってしまうだろうが、私は望月のことばに「音楽」を感じることができない。軽く響いているが、その軽さは「事実ではない」ということに頼っている感じがする。
 「発狂」「混濁」「処理」「遅滞」。これらの「意味」にととのえられたことばは、エネルギーの運動の「助走」に過ぎないのかもしれないけれど、「助走」が「加速」し、限界を越えていく(爆発する)という動きにはなっていない。「音楽」の出発点が「いのちち」ではないからだろう。
 こういうことは、まあ、私の印象に過ぎないのだが。

 これ以上書くと、「嘘」になるのでやめる。ことばは「結論」のためなら、どんな「嘘」でもついてしまうものだから。
 私の書いていることは支離滅裂でデタラメかもしれないが、思ったことを思った順序のまま、考えずに書いている。前に書いてしまった「結論(嘘)」を壊すために書いている。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(98)

2019-08-28 08:19:49 | 嵯峨信之/動詞
* (小さな港に出た)

ここに来て
海の隅に
緑が休んでいる

 「来て(来る)」「休んでいる(休む)」の「主語」は何か。海の「緑(色)」が港に来て、その港の隅で休んでいる。何もしないで、ただ緑(の色)のままに、そこにある、ということか。
 海はどこまでもつながっている。そのつながりのなかで、つながりから隠れるようにして、そこにある緑。
 それは嵯峨の自画像だ。
 書き出しの「小さな港に出た」の「出る」という動詞がとても興味深い。港に来ようとしていたのではない。歩いていたら港に出会ったのだ。「出会い」の「出る」なのだ。
 それは隠れていた自分自身との「出会い」でもある。

 「油津港」という註釈がついている。





*

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