詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(87)

2019-08-14 15:19:28 | 嵯峨信之/動詞
* (きみが愛するということを教えてくれた)

そのときから言葉を虫が食いはじめた

 不思議な詩だ。
 ことばが以前のような姿ではなくなった。それは「きみが愛するということを教えてくれた」から。きみを愛しはじめたから。
 嵯峨自身に向けられていたことばが、嵯峨以外の人間ヘも向きはじめた。
 内向と外向。

どこを歩いても
道はきみのところへ向う
歩行そのものにも虫がついたらしい






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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上から目線

2019-08-14 09:35:27 | 自民党憲法改正草案を読む
(以下はフェイスブックからの転写)

「上から目線」について

 「上から目線」ということばがある。私は、「ことば」としては知っているが、それが具体的にどういうことなのか、さっぱりわからなかった。
 誰からどんな批判を受けても、その人が「上から目線」で私を見ていると感じたことはなかった。もしかすると、私が他人を「上から目線」で見ているから、そんなふうに感じるのかなあくらいに思っていた。
 でも、あるサイトである人と対話していて、はっと気がついた。
 韓国と日本の関係について話していたときのことである。ぜんぜん話が噛み合わない。私は第二次世界大戦時、日本は韓国を軍事的に支配していた、朝鮮半島を侵略していた、「慰安婦」の問題も「徴用工」の問題も、すべて日本に原因があると考えている。日本が朝鮮半島に侵略しなかったかぎり、存在しなかった問題だ。
 その人は、「いま」の視点で「過去」を見つめては「歴史」がとらえられない。その当時の指導者の認識(気持ち)が重要だと言った。(これは、ちょっと乱暴な表現だが、まあ、そういう要約である。)私はそこに「指導者」ということばが出てきたのを見て、びっくりした。
 「上から目線」って、こういうこと? 自分が「指導者」になったつもりで世界を見ること? 「慰安婦」も「徴用工」も、「指導者」ではない。こういう言い方はよくないが、「下っぱ」である。つまり、支配されて生きる人間だ。他人を支配することのできない人間だ。でも、その人たちも、ひとりひとりが生きている。これが大事なのに、そのひとりひとりを見ない。これが「上から目線」か。
 で、思い出すのが、安倍、である。
 安倍は広島原爆の日、長崎原爆の日に、「核保有国と非保有国の橋渡しをする」というようなことを言った。これこそ、「上から目線」の最たるものだね、と思う。自分は被爆者とは関係がない。指導者だ。被爆者に寄り添うのではなく、もっと大局に立って核保有国と非保有国の共存を目指して努力する。
 あ、ばかばかしい。
 目の前に、原子爆弾で死んでいった人の遺族がいる。なお被爆で苦しんでいる人がいる。そのひとたちはひたすらに核兵器がなくなることを願っている。その「ひとりひとり」の声が安倍にはとどいていないのだ。その「ひとりひとり」の声を聞くつもりは全然ないのだ。安倍は、どこかの「指導者」とだけ話し合っている。指導者ではない、下っぱの国民の声は国際政治に役立たない。そう思っているのだろう。安倍にとって「ひとり」の人間として認識されているのは「指導者」だけなのだ。
 国民は「ひとりひとり」。それぞれが「生きている」。このことを忘れてしまったひとは「指導者」ではありえないのだが。
 でも、安倍の、あの原爆の日のことばこそ、「上から目線」のことばだったのだと、はじめてわかった。安倍は「指導者」だから「上から目線」で話してかまわないと思っているんだろうなあ。

 どうでもいいけど。ほんとうは、どうでもよくないけれど。
 私は他人と対話していて、かなりの頻度で疑問に思うことかある。「もっと〇〇の本を読んで勉強したら」と言われる。えっ、なぜ、その人は自分のことばで語らない? 「私は、いま、あなたと対話している。あなたのことばと向き合っている。なぜ〇〇が関係がある? きっと、その人にとっては「〇〇の本」は「指導者」と同じ位置にあるんだな。そして、その人は「〇〇の本」を読んでいるから、〇〇と同じ「位置(上)」に存在すると考えているのだな、と突然わかったのだ。
 私はいつでも、だれとでも「初めてあった」ときの感覚で対話したい。そのひとの「声」と対話したい。



「上から目線」その2

 日本と韓国との関係がぎくしゃくしている。そのことについてあるサイトである人たちと対話したことがある。
 日本は朝鮮半島に侵略したと、私は認識しているが、そのグループの人たちは「併合」であって「侵略」ではないと言う。さらに、当時の朝鮮半島は「日本」なのだから日本とは戦争はしていない、と言う。
 だから「日本はアメリカには負けたが、朝鮮(当時)に負けたわけではないし、朝鮮も日本に勝ったわけではない」と。
 それでは、こう考えることができるのだろうか。
 「朝鮮(当時)は、太平洋戦争でアメリカに負けた」
 そう考える韓国人が何人いるだろう。だれひとりそんなふうには考えないだろう。
 多くの人は、朝鮮が日本軍から解放されたことを、単に解放ではなく「勝利」と考えるだろう。

 「戦争」というのは兵士が武器をもって殺し合うだけではない。そういう「戦争」しか考えないのはヒトラーか安倍くらいだろう。
 多くの人にとって戦争とは「敵の攻撃から逃れ、生き延びること」だ。「生き延びること」だけが「勝つ」ということだ。
 当時に日本を思い返してみよう。
 戦争末期、多くの都会の子供たちが親元を離れ、痴呆に疎開した。彼らは「生き延びる」ことを目的に疎開した。疎開させられた。次の兵士として必要だったからだ。つまり、児童は児童なりに「戦っていた」のである。「戦わさせられていた」とも言える。このとき児童に「戦っていた」「戦わさせられていた」という意識はないかもしれない。しかし、無意識に「戦っていた」「戦わさせられていた」。
 だれを相手に?
 これは少しむずかしい。軍の指導者ならアメリカ相手に、と単純に言えるかもしれない。疎開させた母親なら、相手はどこの軍とは特定せずに、ただ「戦争」というものと戦っていたと考えるだろう。誰に「たたかわさせられていた」かは、日本軍によってと言えるだろう。
 そして、日本の敗戦。
 このとき児童は負けたのか。アメリカに負けたのか。
 児童は直接はアメリカと対面していない。「戦争」というものとだけ直面していた。(多くの母親が考えたように。)でも、日本がアメリカに負けることによって「生き延びる」といういちばん人間にとって大事なものを手に入れた。「勝った」。だれに? 戦争をしつづけた「日本軍」に。「次は彼らに戦わせよう」と思っていた日本軍に。
 児童だけではない。多くの日本人は、日本軍がアメリカ軍(連合国軍)に負けることで、「生き延びる」ことができた。多くの日本人もまた「日本軍」に勝ったといえる。だからこそ、「戦争放棄」を含む憲法を誕生させた。「戦争をしない」を憲法に書き込むことで、国の動きを拘束した。

 あ、脱線した。

 日本でさえ、そうなのだから、朝鮮半島においては、人々の思いはもっと強いだろう。日本軍が撤退していく。日本に勝った、と誰もが思うだろう。「これで生き延びることができる」と誰もが思うだろう。「解放された」という「受け身」の思いだけではなく、「勝った」と思うだろう。「日本」に自己同一させるのではなく、「アメリカ」に自己同一させるだろう。
 当時、朝鮮半島は日本に併合されていた。日本なのだから、韓国人は日本とは戦争していない、というのは単なる「論理」である。「現実」ではない。朝鮮半島の人は、アメリカを初めとする連合軍に殺されることを心配して逃げ回っていたわけではないだろう。日本軍を恐れて逃げ回っていたのではないか。生き延びるために「慰安婦」にもなれば「徴用工」にもなった。生き延びるために何をするか。それはひとりひとり違うだろう。しかし、その「生き延びる」ことが「戦う」ことなのだ。そしてその「ひとりひとり」は「軍人」よりもはるかに人数が多い。それを忘れてはならない。「戦争をする」とは武器をもって敵と対面すること、殺し合うことだけではない。「戦時を体験する」ということが「戦争をする」ということなのだ。
 「戦争を放棄する」とは「戦時体験を放棄する(ぜったいに体験したくない)」ということなのだ。

 「太平洋戦争時、朝鮮半島は日本なのだから、韓国人が日本と戦ったということはない。韓国が日本に勝ったのではなく、日本はアメリカに負けただけだ」というのは「形式論」である。
 日本がアメリカに負けたのなら、朝鮮半島もアメリカに負けたのか。
 だれもそんなことは思わないだろう。
 そのグループの人たちは、朝鮮半島はアメリカによって解放された、と言いたいようだが、アメリカによって「何から」解放されたのか。日本の支配から解放されたのだ。それは実感としては「韓国は日本に勝った(韓国は生き延びることができた/私は生き延びることができた)」と同じだろう。
 なぜ、そのグループの人たちは「生き延びるために苦労するひとりの人間」の視点を持てないのか。簡単に言えば、「庶民」の視点を持っていないのだ。「指導者」の視点しか持っていないのだ。「指導者」の「上から目線」しか持っていないのだ。とくに韓国人に向き合うときが、その傾向に拍車がかかる。



「上から目線」その3

 フェイスブックに「生粋の日本人会」という「非公開グループ」がある。「嫌韓」派といえばいいのかもしれないが、そういう人たちが集まっている。なぜ、私がそのグループにまぎれこんでしまったのかよくわからないが、なぜか、そこに加わっている。
 そのグループで、こんな発言があった。
************
長野業昭 もちろん世界最初の被爆地ヒロシマに住む者としては、原爆(核兵器)は是非とも廃絶してもらいたいと思っていますが、
 ①相手方のことも考えたらアメリカは民主主義国であり、多大な費用と時間を掛けて開発した原爆を使用しないと言うことは、有権者(納税者)からの理解を得られないというのも、独裁国家ではないからこその理由だろうなぁと思います。
 独裁国家であれば独裁者は国民(納税者)の意向など無視して自分のやりたいよう(やらないよう)にできますが、民主主義国家である以上有権者(納税者)の意向は無視できないところです。
 被爆者と自称する方には平和学習の一環として学生時代に何度かお会いして話を聞いたことはありますよ。あくまでも一個人の体験談を聞いたという認識でいます。
 被爆者だからと言って原爆のことを全て分かっているわけではないですしね。それは被爆だけに限りませんが。
 ②広島には「原爆利権」「被爆者利権」もありますしね。「開業医は原爆手帳を持った患者が3 人いれば安泰だ」なんて聞いたこともあります。亡くなった母方の祖母からは、原爆を受けてないはずの人が原爆手帳を取得していたとも聞きました。
自称被爆者もたくさんいると思いますよ。
 ③谷内さんのクオリティでは「自称は全て正しい」ということのようですが…。
***********
 以前書いた「上から目線」というものを初めて理解したというのは、この人との対話からであった。過去(歴史)の評価には、「当時の指導者の気持ちが大事」と主張していた。今回は、こんな発言をしている。私が、広島、長崎の被爆された方や遺族に対して、当時の判断は正しかったと言えますか、と問いかけたのに答えたものだ。(番号は私がつけた。改行も読みやすいように、少し変えている。)

 ①それでは、いま保有している核も「多大な費用(税金)」をかけているから、今後、つかうということだろうか。そうしないと有権者(納税者)の理解をえられないということだろうか。
 これを日本にあてはめるとどうだろうか。安倍は軍備を増強している。莫大な税金をつかっている。アメリカから購入した兵器をつかわないと日本の有権者(納税者)が不平を言うだろうか。
 ②原爆の被害者を「利権」ということばでとらえている。「利権」とはこのばあい「金」のことだろう。「開業医は原爆手帳を持った患者が3 人いれば安泰だ」なんて聞いたこともあります、という表現にも明確には書かれていないが「金」が隠れている。「経済的に(金銭的に)安泰だ」という意味だろう。
 ③は意味がわからない。被爆者手帖は「認定制度」があり、「被爆者である」と主張しただけでは、手帖は交付されない。慰安婦、徴用工も「私は慰安婦だった、徴用工だった」と主張しただけでは認められていないだろう。私が長野さんに語ったのは、指導者の視点ではなく、生きているひとりひとりの人間の立場から歴史をもう一度見つめなおす必要がある、ということだ。
 ①②に共通するのは「金」である。「金」が「いのち」に優先している。そこには「ひとりひとり」はいない。「金」がどれだけ動いたか、ということだけがある。この「金」優先こそ、人を無視した「上から目線」だろう。

 長野さんとの対話は「慰安婦」「徴用工」の問題が始まりだった。長野さんの理解は、日韓条約の締結、日本の金銭の支払いで、「慰安婦」「徴用工」問題は解決しているということだった。
 ここでも「金」なのだ。
 「慰安婦」「徴用工」が求めているのは「事実の認定」と「謝罪」だろう。「事実の認定」と「謝罪」が不十分だから賠償を求める。裁判によって「事実」を書き残し、それを「賠償金(謝罪方法の一つ)」というもうひとつの「事実」で裏付ける。

 「金」ですべての決着がつくと考えているところが、安倍と同じだ。
 繰り返しになるが、これこそ「上から目線」だ。「金を払った。さらに何を要求するのか」という態度である。
 「金」を払うことで、「金」を受け取った人を「排除」する。その人たちにはもう「恩恵」を与えた。それ以上必要はない、という考えだろう。
 これでは、どこの国とも「和解」などできない。

 私は長い間、「韓国嫌い」の人たちが、なぜ韓国を嫌うのかわからなかった。
 だが、長野さんと対話してみて、その「一つの理由」がわかった。「金を払ったから、すべてが解決している。文句を言うのはおかしい」という考え方なのだ。
 在日韓国人、朝鮮人に対する反発も、日本で金儲けをしている(日本人の金を奪い取っている)という感覚なのかもしれない。パチンコ業界への反発も、そのひとつだろう。あんなに金儲けをして(日本人から金を吸い上げて)、という気持ちなのかもしれない。
 この人たちの共通の感覚は、金持ちだけが偉い、金を払えば何でも解決できる、ということだろう。しかし、その「優越感」が韓国の経済成長とともに揺らぎ始めた。自分よりも金を持っている韓国人がいる。それが我慢がならない、ということかもしれない。(これは中国人への嫌悪にも重なるのかもしれない。)
 長野さんは、貧乏で教育のない女性は慰安婦になるしか金の稼ぎようがない、というようなことも書いていたが、そういう「貧乏」な女性にすでに日本は金を払っている。さらに金を要求するというのは、金持ちになるということだ。それが許せない、という気持ちなのだろう。

 なぜ、「金至上主義」の人たちが増えたのか。
 やはり、安倍のせいだな、と思う。自民党のせいだと思う。2012年の「自民党改憲草案」の「前文」には「活力ある経済活動を通じて国を成長させる」ということばがある。「経済(金稼ぎ)が国の成長」と結びつけられている。



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