詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デクスター・フレッチャー監督「ロケットマン」(★★★)

2019-08-27 20:22:07 | 映画
デクスター・フレッチャー監督「ロケットマン」(★★★)

監督 デクスター・フレッチャー 出演 タロン・エガートン

 見始めてすぐ、これはスクリーンではなく「舞台」で見たいなあ、と思った。タロン・エガートンの演技が、そう感じさせる。
 スクリーンと舞台とどう違うか。
 スクリーンは細部(アップ)を見ることができるが、肉体がカメラに切り取られるので「全身感」がない。ときには「肉体感」が逆になくなってしまうときもある。もちろんアップによって強調される「肉体感」もあるのだが。
 舞台では、当然のことながら「肉体」が切り取られ、アップになるということはない。常に全身がさらけだされ、ときには飛び散る汗がきらきら光り、息づかいまで聞こえてくる。そばにいる、という感じがしてくる。
 タロン・エガートンは、この「肉体感」が強い。ふつうの肉体(中肉中背?)という感じで、特にスマートということもない。それが「距離感」を縮める。(似た俳優に、マーク・ウォールバーグがいる。)
 で。
 おもしろいことに、この映画はエルトン・ジョンの音楽を描きながら、エルトン・ジョンと「他者」との「距離」を浮かび上がらせていて、そのことも「舞台」向きなのだと思う。
 「距離」を象徴するのは「ハグ」。幼いエルトン・ジョンが父親に「ハグして」とせがむ。しかし、父親は拒む。その瞬間に、そこにあらわれる「距離」。これがスクリーンでは「ことば」になってしまう。「舞台」なら、きっと「せりふ」を越えて、そこにある「空間」そのものが見えてくると思う。「肉体」と「肉体」の「距離」が、「距離」ではなく「空間」になってしまう。「空間」は「舞台」からはみ出し、観客席にまでつながってしまう。その瞬間、少年の「悲しみ」が観客のものになる。
 カメラのフレームは、その「距離感」の絶対性を、ときにあいまいにしてしまう。カメラのフレームによって「距離」が勝手に動いてしまう。でも、「舞台」なら、そういうことはない。観客からは、常に登場人物と登場人物の「距離」が見える。
 この「距離」に苦しみ、それをなんとかしようともがくエルトン・ジョン。なかなかおもしろい。
 映画の始まりが、エルトン・ジョンがアルコール依存症(薬物依存症)のグループに出かけて行き、そこで自分を語るというところから始まるのも、象徴的だと思う。円を描くように坐り、語り始める。エルトン・ジョンが最初に見るのは、そこに来ている「参加者」ではなく、円の真ん中にある「空間」だろう。それを、エルトン・ジョンはどうやって乗り越えるか。参加者と、どうやって「一体」になるか。まあ、「一体」になる必要もないのかもしれないけれど。ともかく、エルトン・ジョンは「空間」(距離)というあいまいな「哲学」にひっかきまわされつづける。
 それを見ながら、私はさらに、こんなことも考えた。
 私は音楽をほとんど聞かない。エルトン・ジョンも、実は聞いたことがない。大ヒットしているから、どこかで聞いているかもしれないが、これはエルトン・ジョンと思って聞いたことはないのだが。
 何度も出てくるライブシーンを見ながら、エルトン・ジョンはやっぱり「ライブ(なま)」を生きていたのだ思ったのだ。観客に誰がいるか。そのことだけで、もう、「距離」が違ってくる。「肉体」に変化が起きてしまう。
 レコードも出しているが、彼はきっとライブなしには生きられなかっただろう。ステージと観客席はわかれているが、ステージに立てば観客の存在がどうしても「肉体」に迫ってくる。その不特定多数の「肉体」にどうやって向き合うか。自分の「肉体」をどうやって届けるか。曲(音楽)だけではなく、エルトン・ジョンは「肉体」そのものを「他人」に近づけたかったのだ。そのときの「緊迫感」を生きたのだ。
 派手な衣装はエルトン・ジョンと観客を「分断」するかもしれないが、エルトン・ジョンとしてはきっと観客に近づく(観客の視線を引きつける)ための手段であり、方法だったのだと思う。
 音楽を聴かないし、ライブというものに一度も行ったことがない人間が書くと「嘘」になってしまうかもしれないが、音楽はやっぱりライブにかぎると思う。エルトン・ジョンの「声」をつかわず、タロン・エガートンが自分で歌っているのだから、ぜひ、この映画を「舞台」にのせてほしい。それが実現したら、見に行きたいなあと思う。

 (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン8、2019年08月27日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(97)

2019-08-27 08:50:56 | 嵯峨信之/動詞
* (晴れた日はどこへも行くところがない)

立つたまま 水晶になり 霧になり 鶏頭の花となつて
黙つて立つている

 「立つたまま」「立つている」と繰り返される。書かれていないが「座る」と対比されている。「立つ」と視線は高い。つまり、遠くまで見える。遠くを、ここではないところを見たいから「立つ」のである。
 それを強調するのが「黙る」である。意識を集中するために「黙る」。
 「黙つて立つている」は「黙つたまま立つている」である。引用の一行目と二行目は「まま」ということばで強くつながっている。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮川朔「祖母の年譜」

2019-08-27 08:21:52 | 詩(雑誌・同人誌)
宮川朔「祖母の年譜」(現代詩手帖、2019年09月号)

 宮川朔「祖母の年譜」は「現代詩手帖」の投稿欄の作品。阿部嘉昭、野木京子の二人が選んでいる。投稿欄には、ときどき、あ、これで次の「手帖賞」はこのひとだな、と思う作品がある。そう思って、私の予想が外れたのは和田まさこだけ。彼女は、その後、人気が出たが、私は投稿時代の2篇の作品を上回るものを書いていないと読んでいる。
 前置きが長くなった。宮川の作品は、こう始まる。

昭和三十二年。二十一歳。東京の専門学校で
資格を取って、帰郷。栄養士になると思って
いたが、知人のすすめで算盤と作文の試験を
受け、ミドリ中学校の事務員になる。自己流
で学んだ算盤の成績は一番で、後に生徒にも
教えた。

 淡々と進む。森鴎外の文章のように無駄がない。言い換えると、かざったところがない。必要なことを書けば、それがそのまま人間の運動になる。

    十名ほどの先生の給与計算はすぐに
終わり、暇だった。運動会では、丘の上で女
事務員たちがダンスをした。校長は午後三時
になると魚屋に刺身を持ってこさせて日本酒
で一杯やった。魚屋に借金が三万あった。若
かったので不安になったが、副校長に校長は
山を持っていてあれを売れば大丈夫、となだ
められた。初任給六千九百円の時代。ときど
き罠にかかった動物を調理した。いのしし?

 「祖母」から少し逸脱していくが、それにしたがって「まわり」が見えてくる。この感じも、こう書くとちょっと大げさになってしまうが、鴎外の「渋江抽斎」の抽斎が死んだ後の散文のようでおもしろい。主人公はいないのに、主人公(祖母)が見える。
 「不安になった」「なだめられた」の「主語」は「祖母」なのか。「祖母」がなぜ、校長の金のことまで心配しないといけないのか。まあ、算盤をやっていたので、どうしても計算してしまうというのだろう。そこに「じんわり」と「祖母」が顔を出すのが説得力がある。「山」から「いのしし」へと思いがけない展開をするのも楽しい。
 散文体はここで終わり、二連目は、一転して行わけになる。「祖母」ではなく、作者が描かれる。

原稿用紙にここまで書いて、鉛筆を置いた。
夜も更けたので風呂に入る。
湯船につかり、ゆっくりまぶたをあけとじ。
壁になめくじがいるのに気づき
からだがこわばる。The only thing
We have to fear is fear itself.
ルーズベルトの演説の文句を、唱えて耐え
 た。
年譜のことば運びにも、筆者の主観が混ざ
 る。
反省をして早くに寝る。明日は昭和三十三
 年。

 行わけだが、リズムは散文を守っている。ただし、一行一行の飛躍は大きくなる。行間が広くなる。そして、その飛躍が「余白」の大きさを感じさせる。「余白」なのだけれど、そこに何もないわけではなく、作者の「気」が静かに広がっている。「fear」(恐れ)ということばが出てくるが、「畏怖」に通じる何か「確かさ」のようなものがある。
 「知っている」ことと「わかっている」ことを明確に区別し、「わかっている」ことだけをことばにする、その「肉体」の「確かさ」に、私は立ち止まるのである。「肉体」を「知性(思想)」と言い換えてもいいが、私はあえて「肉体」と書いておく。
 「原稿用紙」「鉛筆」が、そういう印象を引き起こすのかもしれない。手を動かしてことばを動かす(書く)。おのずと抑制、制御され、ととのえられていくものがあり、それが「ことばの肉体」にもなっている。宮川が手書きで詩を書いているかどうかは知らないが、手でことばを書いた記憶が静かに残っている。



*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする