詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナディーン・ラバキー監督「存在のない子供たち」(★★★)

2019-08-30 21:58:02 | 映画

ナディーン・ラバキー監督「存在のない子供たち」(★★★)

監督 ナディーン・ラバキー 出演 ゼイン・アル・ラフィーア

 この映画の感想を書くのはむずかしい。私自身の「視点」をどこに置いていいか、悩んでしまう。そして、悩んでしまうということこそが、この映画が告発していることかもしれない。
 悠長に悩むなよ、と怒っている。
 悩みは、苦しみではない。
 主人公の少年は苦しんでいる。悩む暇などない。両親もまた苦しんでいる。彼らもまた悩む暇などない。どうしようか、考えない。考えても答えがないからだ。そして、この苦しみは、誰かに代わってもらうことができない。いつも直接的だ。
 と、飛躍する前に、悩むことについて思いを巡らしてみる。
 とても興味深い男がいる。少年が家出をし、助けを求めたエチオピアの不法移民。彼女には赤ん坊がいる。その子供の父親である。一緒に暮らしているわけではない。市場で店を開いている。そこへ主人公が赤ん坊を連れてやってくる。彼が父親だから、赤ん坊の父親に助けを求めるのだ。
 この男は、苦しまない。悩みもしない。どう行動するか、もう結論が出ているからである。悩むことを放棄し、ただ行動する。子供に金をやる。食べ物をやる。
 ここに、何か恐ろしいものがある。
 「結論」が出てしまっている、という恐ろしさだ。
 見回せば、世界はすでに「結論」だらけである。少女は生理が始まれば結婚させられる。不法移民は発覚すれば追放される。偽造の身分証明書と金があれば、スウェーデンへ行ける。世界には、いくつもの「結論」がある。ひとは、そのどれかを選択するのではない。選ぶ権利、選択を悩むということが許されていない。
 これは、そういう苦しみを生きていない人も同じである。
 不法移民は逮捕する。犯罪者は刑務所に入れる。もちろん裁判もあるが、それは「結論」として裁判があるからであって、裁判をとおして人間を再生させるためではない。「結論」を「結論」らしくみせかけるだけのものである。

 だからこそ。

 私は、悩むということを選び取りたい。「考える」ということを選び取りたい。
 映画から離れてしまうが、いま、日本のネットであふれているのは「結論」としてのことばだけである。みんなそれぞれ「結論」をもっていて、それを基盤にして、違う「結論」を主張する人間を否定しようと、罵詈雑言をばらまいている。罵詈雑言をばらまくことを、だれも悩んでいない。言えば、それで満足している。
 考えなくなっているのだ。「結論」をコピー&ペーストして、この「結論」があるから大丈夫と思っている。なんといっても、それは自分で考えた「結論」ではなく、すでに出てしまっている「結論」だから、間違っているはずがない、と信じている。

 たぶん、この映画に登場する多くの「無名」の人間は、同じように行動しているのだ。ネットで罵詈雑言を書くかわりに、ただそこにある「結論」をそのまま採用して生きている。奇妙な言い方だが、エチオピアの不法移民の女性さえ、不法がばれないように働いて生きるという「結論」を生きている。乳呑み子をかかえているという問題があるが、それによって「結論」がかわるわけではない。ある意味で、悩まないのだ。
 少年だけが悩んでいる。妹に生理が始まれば、どうやって隠そうか。赤ん坊にのませるミルクがなくなった。どうしよう。よその赤ん坊の哺乳瓶を奪う。氷に砂糖をつけてなめさせる……。
 
 だからこそ、こう言いなおすことができる。
 
 主人公の少年は、苦しむのではなく、悩めと言っている。みんな「結論」をそのまま受け入れて、「結論」をかえようとはしない。少年は、たったひとり「結論」を変えようとして、悩み、戦うことにしたのだ。
 裁判官も、マスコミも、みんな悩んでなんかいない。「結論」が存在していて、それをすべてにあてはめようとしているだけだ。それに対して少年は異議を唱えたのだ。悩みを行動に変えたのだ。

 学ぶべきなのは、ここなのだ。悩み、行動する。そのとき、苦しみは生きる力になる。少年は、最後にほほえむ。身分証明証の写真を撮るためだが、行動こそが身分証明書であることを、少年は告げている。
 だが、こういうことを「結論」にするのは、やめておく。私は、悠長に悩むなよと叱られたことを、もっと考えてみたい。
 (KBCシネマ1、2019年08月30日)
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(100)

2019-08-30 09:32:46 | 嵯峨信之/動詞
* (--そうだ)

ぼくは川霧の中から詩のFormを探してこよう

 詩のことばではなく、「Form」と嵯峨は書く。突然あらわれたこの外国語を私はどう読んでいいのかわからない。

ぼく自身を忘れなければならない
知識を 経験を
愛を
憎悪を

 これは「詩のFormを探してこよう」を言いなおしたものだろう。「ぼくを忘れる」ための方法である。「ぼくを忘れる」とは、新しく生まれ変わると言いなおせるだろう。
 知識も経験も愛も憎悪も、いままでとは違う形として生み出す。嵯峨は、その方法を自分を捨てるということのなかに見つけようとしている。日本語を「外国語」のように、新しいものとしてとらえようという「意味」をこめて「Form」ということばをつかったのかもしれない。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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