詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(80)

2019-08-07 08:20:50 | 嵯峨信之/動詞
* (積みあげた籾殻の山をかきまわしても)

底からは何も出てこない

 詩を断片化し、一部だけを読むことは一種の暴力である。そう理解はしているが、私はあえてそういう暴力を生きる。何かに最初にであったときは、いつでも「断片」でしかない。どんな存在も「過去(時間)」を持っているが、それがどんな時間かわかるのは長いつきあいの結果である。そして、そういうつきあいの果ての「理解」もまた、どこかに暴力を含んでいる。「ととのえる」という別の野蛮を。
 籾殻がある。山になっている。脱穀したあと自然にできる。そこに(底に)何もないことはだれだってわかっている。わかっていても「かきまわす」。そのときひとは「かきまわす」という暴力を生きている。かきまわすことで自分自身のなかにある「ととのえる」力に抗っている。抗って、何が生まれるわけではない。ただ一瞬の解放を生きる。そういう「無意味」をしたくなるときがある。
 私の詩の読み方は、そういう「無意味」な生き方だ。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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