詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子『さんぽさんぽ』

2019-08-11 23:31:26 | 詩集
さんぽさんぽ
坂多 瑩子
思潮社


坂多瑩子『さんぽさんぽ』(思潮社、2019年07月31日発行)

 私は以前から『おばさんパレード』という本を書きたいと思っている。おばさん詩人の作品の感想集だ。おばさんという「人種」は、男とも女とも違う。他人に自分の「肉体」を食わせながら生きている。きっと自分の「肉体」を食わせるふりをしながら、他人を食っているのだろう。どの作品も、そんな感じで「するり」と関係が入れ代わる。食わせているのか、食っているのか。どっちだっていいじゃないか。そうやって互いに生きている。このときの「互い」という「世間」が「おばさん」の「おばさん」たるゆえんだ。
 「世間」というのは、私だけの感覚かもしれないが、男は苦手だ。女は「おばさん詩」を書けるのに、男は「おじさん詩」が書けない。「世間擦れ」できないのだ。互いに生身の肉体をこすりあわせて、どっちもどっちと言うことができない。「肩書」を頼りに「私はあなたとは違います」と言ってしまう。
 「おばさん」は「肉体」一つを武器に、「それがどうかしましたか」と開き直る。この開き直るというのは、自分の「肉体」を、さらに開いて見せるということなんだけれどね。このときの「肉体」を、私は「思想」と呼ぶのだけれど。

 と、書いたら、ちょっと面倒くさくなってきた。
 もう一歩、突き進んで書かないといけないような気がするし、これ以上書いたら嘘になってしまうし。つまり、感じたことではなく、考えたことになってしまいそうだし。

 でも、もう少し書いてみるか。
 「穴」という作品。

あちこちに
穴があいていて
妹がかならずついてくる 今日もいる
二人で穴に落っこちて
穴って入り口はせまいけど中はいつだって広間みたいにひろい
妹は
どんどんおおきくなる
あたしの
背丈を追い越していく
布団ちゃんとたたまないとおこられるよ
ヒステリックにいう
母親そっくり
妹はおおきくなりすぎて穴からでられない
あたしは知らんふりして家にかえる
昼ご飯たべて 夜ご飯になって
妹はいないけど
誰もさわがない いないよといったら
探しておいでといわれた
仕方ないから探すふりして穴から穴をのぞいてやった
懐中電灯がみつけたのは欠けた茶わんだけだった

 あれっ、なんだか「おばさん」っぽくない。何というか、「世間」という感じが薄まっている。
 うーん、これが、今回の感想になるのか。
 「母親そっくり」という「批評」は、それはそれでいいのかもしれないが、ちょっとととのえられすぎているかなあ。
 「妹はおおきくなりすぎて穴からでられない」という「意地悪」がもっと動くとおもしろいのだけれど。「いい気味」というのは、自分では何もできないときの、いちばんの仕返し。そういうことを平気で(?)するのが「おばさん」なのだけれど、それが薄まっている。

妹はいないけど
誰もさわがない いないよといったら
探しておいでといわれた

 このあたりは、坂多の「純粋さ」が「正直」になって出ている。「意地悪」をもち続けることができない。
 で、あ、そうだった。坂多はほかの「おばさん」と違ってこういうところに特徴があったんだなあと思い出したりするのだが。
 そうか、「おばさん」を卒業して「純粋」へもう一度引き返していくのか。人間は歳をとると、子供に帰る。
 「次の夜に」には、そういう子供の「純粋な不安」が感じられる。

(さがさなければ
小さな子が呟きながら
あたしを追い越していった
(さがすってなにを

セミの脱け殻ならここにあるよ
バナナ味の消しゴムも

きっと
聞こえないふりをしてるんだ
(さがすってなにを
あたしは大きな声で叫ぶ

 あるいは「なに」にも。まるで小さいころの「正直」に追いつこうとしている、あるいは追いかけられようとしているみたいだ。

いどって
なに
あたしは聞いた
せきこんで聞いたのに
その子はもうひどく遠くをあるいていて

井戸はちょうど
画用紙の真ん中にあり
画用紙はかなりくたばっていて
黄ばんでいて
風が
はしをめくり上げると
画用紙は
チラリとあたしを見て
とぶように窓のそとへ逃げていった

 松下育男が「帯」を書いているが、この最終連など、松下が絶賛しそうな気がするなあ。と、どうでもいいようなことも思った。

 いちばん「おばさん」っぽい詩をあげれば「せっかち」になると思う。この「せっかち」や「幼年」については、すでに感想を書いたような気がする。だから、今回は書かない。
 「なつやすみ」は「少女」が「おばさん」に脱皮する感じでおもしろい。坂多と子供のときから「おばさん」だったのか、と思ったりするのだった。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(84)

2019-08-11 12:43:25 | 嵯峨信之/動詞
* (夜は雨になつた)

若い日は蓼のように匂う
待つということは少しの時も過ぎさることがない

 「蓼(たで)」は田舎ではよく見る草である。私は匂いを意識したことがない。嵯峨は匂いを嗅いだことがあるのだろう。どんな匂いか、私は言うことができないのだが、「若い日」を「匂う」という動詞でとらえているのがおもしろい。これは「匂いを発する」というくらいの意味だろう。つまり、何もしなくても内部からあふれてくるものがあるのが「若さ」。
 そういうものを肉体に抱え込みながら「待つ」。その「待つ」を「時が過ぎさることがない」と別の角度からとらえなおす。「時」は「蓼の匂い」のようにあふれていかないのか。そうではなくて、あふれてもあふれてもなおかつなくなることがない。
 なくならないもの(過ぎさることがないもの)が「ある」と書いている。




*

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「慰安婦」の問題(追加)

2019-08-11 09:18:00 | 自民党憲法改正草案を読む
「慰安婦」の問題(追加)

             自民党憲法改正草案を読む/番外280(情報の読み方)

 「慰安婦」の問題、名古屋の展覧会で起きた「少女像」展示撤去の問題は、「日韓」の問題ではなく、女性への人権侵害という視点でとらえなければならない。先日、そう書いた。そのことの追加。

 「慰安婦」の問題が、女性への人権侵害であるということは、実は日本の軍隊、その思想を引き継ぐ日本の男の問題でもある。
 朝鮮半島で起きた(もちろん他の国でも起きている)問題は、韓国の女性が日本に謝罪と賠償を求めているという問題ではなく、日本の男が女性に対して謝罪しないという問題なのだ。
 現代の、現実の、日本で起きている問題からみていくと、そのことがよくわかる。
 ①ジャーナリスト志望の女性が、安倍のお気に入りのジャーナリストに強姦された。逮捕状が出たが執行されなかった。もちろん起訴もされなかった。
 ②麻生は、部下の財務省次官がセクハラ問題で「セクハラという罪はない」と主張し、「セクハラという罪はない」ということが閣議決定までされている。
 これは、現代においても日本では女性が「慰安婦」としてとりあつかわれているという証拠である。
 「事件」の詳細を私は知らないが、簡単に言えば、上記の2件とも、
 ①男が女性を強引に誘ったのではなく、女性の方が男に近づいてきた。(「慰安婦」が「広告」をみて応募してきた、という主張に似ている。)
 ②男は女性に対して「便宜」を与えようとしている。「便宜」を前提として交渉している。見返りがあるのならそれは男の側に「悪意」はない。むしろ「好意」がある。何らかの「便宜」を求めるなら、その代価に性を提供するのはあたりまえである。性以外に男に提供するものがないのなら、性を与えて当然である。(性の提供を受けたかわりに、「代価」を支払っている、という主張に通じる。)

 注意しなければならないのは、こういう女性への人権侵害が、安倍の権力の周辺で起きており、そうした事件に対する「自浄能力」「反省」ということが、安倍の周辺では一切おこなわれていなということだ。反省するどころか、逆に「開きおなっている」。
 「セクハラという罪はない」というのなら、即座に法をつくればいい。しかし、そうするのではなく、逆に「セクハラという罪はない」を閣議決定して、犯行を「無罪」にしている。
 この権力の「暴力」にこびる人間が(たとえば名古屋市長が)、「少女像」に対して批判する。展示を中止させる。
 安倍が「検閲」したわけではないが、安倍に忖度して、名古屋市長が「検閲」したのである。
 何のために?
 もちろん「権力」を守るためである。安倍が「慰安婦」問題を放置している、韓国の女性に謝罪しないという問題を隠蔽するために、である。問題は女性の人権を侵害して平気な顔をしている安倍にあるのではなく、過去にこだわり不平を言う韓国の女性にあると論点をすり替えるためである。

 憲法に言う「表現の自由」とは、国民が国に対してどんな表現をしようが、国はそれを保障しなければならないという規定である。
 「少女像」について具体的に言いなおせば、作者が「少女像」をつくることで、日本軍の暴力を明らかにし、その日本軍の行為についての責任を引き継ぐ安倍の態度を批判する。その批判を封じてはならない。これが、今回のポイントだ。
 権力に対する批判はいつの時代でもある。そしてそれは権力にとっては不愉快だろう。しかし不愉快を受け入れるのが権力の仕事である。
 「表現の自由」についてはいろいろなことが言われる。どんなことを言ってもいいのか。何を表現してもいいのか。名古屋市長の行動を肯定するあるひとが「ヘイトスピーチ」や「児童ポルノ」も「表現の自由」か、とあるページで書き込んでいたが、「ヘイトスピーチ」や「児童ポルノ」という「表現」は個人がするものであって、その個人がすることについては憲法ではなく、法律や条例が判断する。法律や条例で「禁止する」。憲法に書いてある「表現の自由」とは関係がない。
 多くの人が「憲法」と「法律」を混同している。
 少し前に書いたことを振り返ってみる。
 麻生は「セクハラという罪はない」と言った。このときの「罪」は「憲法」には関係がない。憲法は、ひとつひとつの「犯罪(行為と罪)」など規定しない。あたりまえだ。憲法は個人を拘束するものではなく、権力を拘束するものだからだ。
 そして、その憲法を守る義務がある大臣が、憲法を通り越して、「法律」を楯に犯罪者を擁護した、というところに麻生の発言の問題がある。麻生(をはじめ、国会議員)がしなければならないのは、個人の暴力を規制するための法の整備である。どうしてだれも動かないのか。

 この、安倍周辺の「暴力」は、安倍らが単に「古くさい価値観」を生きているということではない。「2012年の自民党改憲草案」を先取りしているのだ。改憲草案では「個人」が否定されている。憲法を「国民が国を拘束するための根拠」から、「国が国民の行動を拘束するための根拠」へと変更しようとしている。
 その「先取り」は、たとえば北海道であったヤジ事件があきらかにしている。市民が安倍の演説に対し「安倍やめろ」と言っただけで警官に拘束されている。国(権力/安倍)への批判は、即座に封じこめられている。

 「小さな出来事」に見えるかもしれないが、その底流には「大きな国家犯罪」が動いている。権力が憲法違反をし、その憲法違反を正当化するために憲法を変えようとしている。法律を少し手直しするだけですむ夫婦の「別姓選択」さえも否定する安倍は拒否している。個人のささやかな自由、だれに迷惑をかけるわけでもない自由を拘束するために、安倍は憲法を変えようとしている。こういところからも、今回の「慰安婦」の問題をみつめる必要がある。ほかに起きている「事件」と関連づけ、共通するものはないか、それを探り、指摘し続けるということが必要だ。



 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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