谷川俊太郎『ベージュ』(4)(新潮社、2020年07月30日発行)
巻頭の詩は「あさ」。こう始まる。
めがさめる
どこもいたくない
かゆいところもない
からだはしずかだ
だがこころは
うごく
なんでもない書き出し。
というと変だが、特に何かを感じるわけではない。こういう詩は読んだ気がするが、読んでいない気もする。
そうか。谷川には、からだ(病気?)に対する不安がないのか、とぼんやり思う。
めがみる
ゆきがふっている
みみはきく
かすかなおとを
ひとじちが
いきをしている
どこかで
いま
あれ、「からだはしずかだ」。目がさめたとき、からだが何か自己主張するわけではなく、まだじっとしている。それに反して「こころは/うごく」というのが一連目の「意味」ではなかったか。その意味を強調するために「だが」という接続詞がつかわれていたのではなかったか。
私は、ここで、そんな「意地悪」が言いたくなってしまう。
そして、「からだはしずかだ」「こころは/うごく」と書いていたのに、「めがみる」「みみはきく」って、これ、からだのしごとじゃないか、とさらに思うのである。「こころ」ではなく「からだ」が「うごいている」と。
そのあと、突然「ひとじち(人質)」が出てくる。これは、想像。つまり、「こころ」が動いている。しかも、その「こころ」は「ひとじちが/いきをしている」ところを想像している。何を考えているかではなく、息をしている「からだ」を想像している。
うーん。
このとき、谷川の「からだ」はどうなっているのかな?
「こころ」が動き、人質が息をしていると想像するとき、谷川の「からだ」は人質のからだになっているのではないだろうか。谷川は人質として、自分のからだを動かしている(息をしている)のではないだろうか。
どうも、「からだ」と「こころ」というものは、切り離せそうで切り離せない。
でも、これは、私の「でっちあげた理屈」。つまり「意地悪」からはじまったことばの動き。こんなことは、詩を読んだときは、考えていない。
なんとなく読み始め、なんとなく読み続けている。
このなんとなく、というのは、どこからくるのだろうか。
めがさめる
どこもいたくない
かゆいところもない
からだはしずかだ
だがこころは
うごく
この、ことばのリズムだ。一行一行が短い。短すぎて「意味」があるのかどうか、わからない。つまり、なんでもない、と感じる。
そして、この一連目の最後。
「だがこころはうごく」と一行にしてもいいのに、谷川は二行にしている。しかも「だが/こころはうごく」ではなく、「だがこころは」と一気に言って、そのあと一呼吸おいて「うごく」と動かす。
「意味」ではなく、ことばがうまれるときのリズム、ことばが動くときのリズムが、そのまま再現されている。このリズムにのせられて、私の肉体が無意識に動く。
このことに「ひらがな」がとても影響している。
「音」があり、音が消えていく。「意味」がどこかに漂っているかもしれないが、それも音とともにやがては消えていく。意味というのは、たいていの場合、そういう軽い、不確かなものだろう。
そうだからこそ、二連目、目で雪を見て、そこから耳は雪の降る音を聞いている考え、雪が降るかぎり、そこには雨音とは違うかすかな音があると想像し、「かすかなおと」という意味をつくりあげる。実際に「かすかなおと」は聞こえるのかもしれないが、これはなんというか、「感覚の整え方」として一種の「定型」を踏まえている。感覚の整え方そのもののなかに「意味(伝統)」がある。そして、それはほとんど「無意味」な軽さを持っている。
こんなふうに考えてみるとわかる。
耳がかすかな音を聞き取る。何だろうと思ってまわりをみまわすと雪が降っている。あ、あれは雪の降る音だったのか、と気づく。これは、めったに経験しない。「かすかな音」というのは、つくりだされた「感覚の繊細」という意味なのだ。そして、それはいまではほとんと無意味になっている。
無意味だから「ひとじち(テロリストに囚われた?)」を詩に持ち込み、ことばを「現代化」させている。古今、新古今のような「感覚の繊細」を鍛えなおし、「ひとじち」が雪が降るのを見て、その音に耳をすましていると言い直しているのだ。
(雪の降る音について少し補足すれば、私は雪の降る音の静けさに目がさめた記憶がある。富山にいる時代で、真夜中、それこそ「しんしん」という音をのみこむような強烈な静けさが聞こえてくる。何だろうと思って、目がさめたついでにトイレに行くと、雪がまっすぐに降りつづいているのが見えた、ということがある。これは、物音が存在しない真夜中だから体験できたことであって、音が存在し始めている「あさ」なら、やはり視覚が先にあり、そのあとに聴覚が目覚めるということになると思う。)
脱線したが。
私が、この「あさ」で何を考えたかというと。
この詩を動かしているのは「意味」ではなく、「音」。しかも、それは消えることで意味を勝手にずらしていく、過去に言ったことは無視してしまうということ。意味をひきずらない。もちろん意味の影響を受けるけれど、それは「結論」を前提としていないということ。いいなおすと、意味がどこへ行こうが気にしていない、ということ。
「死」というものは、ある。これはだれもが知っている。「死」は一種の「結論」だ。だが、その「結論」は「ある」ということがわかっているだけで、それを実際に自己体験として、自分のことばで語ることはできない。やがて人間は死んでしまうが、その「死」を人間は決定できない。「意味」を「支配」させることができない。
動いている(生きている)かぎりは、ただ動いていくしかない。
こんなふうに要約してしまうと、私の考えていることを説明するために谷川の詩を利用している、という感じにもなるのだが。
まあ、それはしようがないだろうなあ。
あ、これも脱線だなあ。
私が、この「あさ」を読み、何を感じ、考えたかというと。
こういう「結論のなさ」(意味を統合せずに、開放/解放したままにしておく)というのは、「ことば」が「音」であるからなのだ。「音」も証拠ではあるが、「文字」に比べたらかなりあいまい。消えていく。(もちろん、録音し、残すという方法はあるが。)そして、この不安定さのなかには、何か「自由」につながるものがあり、ひらがなで詩が書かれているのは、そういうことと関係があるのだ。
「絶対的な意味」を主張する(あるいは確立する)ために、谷川は死を書いているのではない。ことばを意味にしばられないかたちで、思いついたことを思いついたまま書いておくために「おと」を採用しているのだ。ことばが「おと」であることを明らかにするために「ひらがな」で書いているのだ。
しんだあとの
ときへと
こころは
うごく
からだに
しばられながら
からだを
よろこんで
どこも
いたくない
あさ
からだは
ここにいて
こころは
うごく
どこまでも
いつまでも
これを「すばらしい哲学」と呼ぶことはできる。でも、それはきっと「谷川が言った」ということを前提にしている。どこかのおじいさんが、あさ、こんなことをぼんやり考えたとしても、それは「すばらしい哲学」にはならない。どこかのおじいさんは、こんなことを、いちいちかきとめたりはしない。ただ、ぼんやりと、なんとく思ってみる。なんでもないことなのだ。
毎日、繰り返しあらわれては消えていく、なんでもないこと。
と書き、私はまた、読んでもいないのに、「あ、これは荘子だなあ」と思ってしまう。
あ、また、脱線した。
どうも、谷川の詩は、「結論」を向けて私をひっぱっていくというよりも、結論が見えたかなあと思うと、それをかき消すようにして、脱線へと私をひっぱっていく。
ただ繰り返し、おしゃべりをする、という感じに私をひっぱっていく。「どこまでも/いつまでも」。
でも、こういう世界は、私の「理想のことばの運動世界」。
「結論」なんて、どうでもいい。それがどうなろうが、ただ「おしゃべり」をして、ことばに何が語れるか、それを思っているだけでいい。
取り止めがなくなるので、谷川自身に語らせよう。「あとがき」にこんなことを書いている。
詩を書いていると、私の中に時々ひらがな回帰という現象が起こる。普段書いている漢字ひらがなまじりに不満があるというわけではない。文字ではなく言葉に内在する声、口調のようなものが自然にひらがな表記となって生まれてくるといえばいいのか、意識してひらがなを選んでいるのではなく、文字にして書く以前にひらがなのもつ「調べ」が私を捉えてしまうのだ。その種の作がこの詩集に数篇入っている。
「言葉に内在する声、口調」「調べ」と「ひらがな」が結びついている。「意味」ではなく「調べ」が谷川のことばを動かしている。
「意味」を放棄すれば、おのずと「調べ」がよみがえる。「からだ」はそれ自体で「リズム」を持っている。リズムにあわせて、音があつまり、それが知らずに「調」になる。これを「自然」な形でなしとげるには、やっぱり「何もしない」ことなんだろうなあ。
さらに言えば、「意味」は人間それぞれが持っている。各自には各自の「意味」がある。みんな自分の「意味」で手いっぱいで、他人の「意味」を生きている暇などない。
だとしたら。
「意味」を交換するではなく、ただ「調べ」を交換するという形の、ことばの交流があってもいいのではないだろうか。
それは、言い直せば。
数篇の「その種」の詩は、谷川俊太郎が書いたということを無視して、どこかのおじいちゃんが、こんなことを言ってたよ、と思ってみる。聞いたことがあるような、ないような、すぐに忘れてもいいんだけれど、ふと思い出してしまうようなことだったなあ。
だまってうなずいた
あなたが
すきだ
「にわに木が」の最後の三行だが、この「好きだ」というのは、私にとっては、そういうこと。だれか私に何か言ってくれた。ほかのひとに言っていたことをそばにいて聞いただけかもしれないけれど。そのことばは、書き留めて記録しておくようなものではない。忘れてもいいんだけれど、ふと思い出して、「うん」とうなずく。「うん」はことばに出さず、ただ「だまってうなずく」。
そういうとき「好き」という気持ちが、こころのなかで動いているでしょ?
こういう「好き」をさそうことばは、はなしことば。調べ、口調。あるいは「口癖」と言い換えてもいい。何を言ったか、何を聞いたか、忘れた。でも、そのときの「調べ」はわすれることができない。「調べ」のなかに、「そのひと」がいる。
「意味」のなかにではなくてね。