池田清子「えっ」、徳永孝「怒っているの?」、青柳俊哉「水踏む音」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年08月16日)
今回は、いつもと違い、作者が自分の詩を解説する(どういうことを書いたか説明する)ということからはじめた。その説明で納得がいくか。池田は、車で帰宅するとき、見慣れない光景に出会い、道を間違えたと感じ、いったんUターンした。でも間違っていなかった。そのときのことを書いた、と説明した。
「いつもと違う感じ、道に迷った感じがよく出ている」「いままで気がつかなかったものに気づく。道は間違っていなかったと感じたときのことがわかりやすく書かれている」「でも、最後の『あーあ』は何だろうか」「安心したのか、むだなことをしたとため息をついているのか」
これは、なかなかむずかしい。どちらでもいいと思うし、どちらかがわかるように書けば納得するというものでもないかもしれない。
この詩でいちばんおもしろいのは三連目。道に迷ったときの感じが具体的に書かれている。「仮囲い」「更地」「新しい家」。
考えてみたいのは、「あんな」ということば。「あんな」「そんな」「こんな」。これによって、「迷い方」が違って感じられるのではないだろうか。
「あんなとこんなは、どう違う?」
「あんなは遠いけれど、こんなは近い」
ここからが問題。どちらが「迷っている感じ」が強くなるか。
これはたぶん書き手によっても受け手によっても違うので、どちらとは言えないが、私は「こんな」の方が「身近」で迷いが強いと思う。
こんな仮囲いはなかった/こんなところに仮囲い(がある)の方が、「もの」が迫ってきて、認識を混乱させている感じがする。「あんな」よりも「こんな」の方が主観性が強い。
あるいは「こんな」「そんな」「あんな」を組み合わせて書くと、空間が複雑になるとおもう。「こんな仮囲いはなかった/そんな更地もなかった/あんなに新しい家も」にすると、視線がさまよう感じになる。車を運転しているので、こんな具合に視点がさまよってはいけないのかもしれないが。
そんなふうに迷うと、最後の「あーあ」もずいぶん変わってくる。一つの意味ではなくなる。「安心」もあれば「むだをしたなあ」という気持ちもある。さらには、「がっかりした」という感じも生まれてくるかもしれない。迷い続け、迷宮にはりこみ、そこから出てれなくなればよかったのに、という思いに突き動かされた「あーあ」になるかもしれない。
この詩について、池田がおもしろいことを言った。「感情というか、悲しみやよろこびみたいなものを書かなくても詩なんだろうか」。
私は、詩だといいたい。
美しいもの、すばらしいものに感動する。悲しみに沈む。その「気持ち」を書いた詩もあるが、人間の「思い」はもっといろいろなものが組み合わさっている。こころが動いているならば、それは全部、詩。
三連目がおもしろいのは、三連目ではこころの動き、迷いがそのままいろいろなことばになって具体的に書かれている。「風景がいつもと違って見えて道を間違えたと錯覚したけれど、道を間違えたわけではなく、いつものように家に帰れた」では、「結果報告」になってしまう。「結果」ではなく、途中経過をリアルに書けばいいのだと思う。リアルに書くために「あんな」「こんな」「そんな」を考えてみるといいのだと思う。
*
コンピューターのプログラミングを考えているとき、いつもと違った雰囲気になる。そのときの様子を書いたと説明した。
でも、なぜタイトルが「怒っているの?」なのか。もし、何かを真剣に考えているときのことを書いているのなら、違うことばでもいいのではないだろうか。
徳永は「怒っている、が他人と自分との格差がいちばん大きいから」と説明した。
これだね。
自分と他人が違う。その違いが「大きく見える」。そこに詩がある。もちろん、その「違い」は「同じ」という共感に結びつかないといけないのだけれど、違いが大きい方が「同じ」にたどりついたとき感動が大きくなる。
池田が「えっ」について「悲しい、というような感情を書かなくていいのだろうか」と言ったが、悲しいというような感情は、わりと「わかりやすい」。だから「共感」もしやすい。だからこそ、読んだときに「驚き」が少ない。「共感」というのは、自分のなかにもそういう感情があったのだと発見することが大切。「悲しい」ひとをなぐさめるだけではなく、それと同じ「悲しみ」が自分のなかにあるということを発見したとき「共感」する。詩は、共感を呼び覚ますことばの運動でなければならない。
さて。
なぜ、「怒っているの?」というタイトルがいいのか。もちろん、「怒っていない」から「怒っているの?」がいちばんおもしろい。
でも、コンピューターのプログラミングを考えている、ということが、この詩から伝わるだろうか。
四連目と五連目のあいだに、大きな飛躍がある。
四連目は、三連目の「想像し」を受けて、想像したことを書いている。身近な虫からはじまり、火星に飛躍する。さらに宇宙には歯磨きしなさいと叱るひとはいるのかと想像している。池田が書いた「あんな仮囲い」のように、ここには具体的なことが書かれていて、楽しい。具体的というのは、その人だけが体験したことであり、同時に、いわれてみるとそういう体験をしたことがあるなあと思い出させてくれる何かである。
五連目は、それをさらに別の角度から言い直したものなのだが、それは「想像」ではなく、むしろ現実に属する。
徳永は、「コンピューターのプラミングを考えている。それは数字と論理の世界。そういうことに集中していると、一点をにらみ、額に皺をよせる、というようなことが起きる。それを見たひとは怒っているのか、悩んでいるのかと思うけれど、実は怒っても悩んでもいない」と詩の背景を語った。
説明されれば、そうなのか、と思う。でも、説明されて、そうなのかと思うのでは「共感」にならない。
池田の詩について語るときつかったことばで言い直せば、五連目は「結果報告(結論)」になってしまっている。「結論」は書いているひとにとっては重要だろうが、読者にとっては「途中経過」の方が重要である。「途中経過」が納得できないと「結論」は納得できない。「結論」に納得したいのではなく、読者は「途中経過」に参加したいのだ。すくなくとも、私はそうである。
もし「数学の世界/論理の宇宙」と格闘していることを書くのだったら、どんな具合に格闘しているかを書いた方がいいだろう。そのとき「数学/論理」をどんなふうに具体化するかはむずかしいが。
*
青柳は、原民雄の「草の花」を読んで、そのときの印象から書き始めたと言った。現実の体験ではなく、小説を読んだときの体験。「原民雄の小説のことばからの引用もある」とつけくわえた。
「黒い豆粒をしきつめた膨張した頭部」がイメージしにくいという声もあったが、これは被爆したひとの様子だろう。被曝すると顔(頭部)がふくれるといわれる。被曝を語ったことばにどれだけ触れてきたか、被曝をつたえるものをどれだけ見てきたかが、ことばを理解するときに影響するだろうと思う。
この詩には「黒い豆粒をしきつめた膨張した頭部」のように、いま、私たちが現実に見ることができるものとは違う何かが書かれているが、同時に、いまもつかうけれど、こんなふうにつかわないなあ、ということばもある。
これは、読めばそのまま意味はわかるが、なかなかこういうふうにつかわない。たとえば通勤時、列車が混雑している。駅が混雑している。スーパーで大売り出しがある。その人込みを見たとき、なんというだろうか。
「人間がたくさんいる」とは、なかなか言わない。たいていは「ひとがたくさんいる」という。人間とひとはおなじものだが、つかい方が微妙に違う。
なぜ、ここでは「人間」ということばなのだろうか。
「まだ生きている」「死にかけているけれど、まだ生きている」「何か異様な感じがする」
「ひと」とは呼びにくい何かがある。「ひと」というとき、私たちはその「ひと」と私を区別していない。「人間」というとき、「ひと」の形はしているが「ひと」ではない、という感じ、ふつうではない何かが入り込んでいる。
それは、
ということばにも現れている。「死」ということばをつかわざるを得ない何かがそこにある。「人間」はさらに、
とも言い直されている。
こうした言い直しは、池田が「あんな仮囲い」と書いていることに通じる「具体的な事実」である。青柳だけが見た「現実」である。そして、それは青柳だけが見たことであるけれど、私たちの体験を揺さぶる。原爆資料館で見たものや、何人もの語り部が語ってきたことを呼び覚ます。
そういうつらく苦しい「体験」が「祈り」としての「共感」を呼び覚ます。
この「きよらかな水踏む音」を正確に把握するのはむずかしい。「きよらかな」は何を修飾しているのか。「水」か「音」か。たぶん、区別はできない。区別する必要がない。水も清らかだし、音も清らかなのだ。苦痛に満ちた世界だけれど、そこに「きよらかな」何かを求めるものがある。そう信じたい。「救い」への祈りが、そういうことばを必要としている。
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えっ 池田清子
違ってる?
いつもの道と違う
毎週帰ってる道なのに
最初の信号で左折して
次に右折して
あとは道なり
でも 何か違う
あんな仮囲いはなかった
あんな更地もなかった
あんなに新しい家も
どこで間違ったのか
やっぱりUターン?
えっ
あっさり戻れた
違ってなかった
いつもの道 だったのか
あーあ
今回は、いつもと違い、作者が自分の詩を解説する(どういうことを書いたか説明する)ということからはじめた。その説明で納得がいくか。池田は、車で帰宅するとき、見慣れない光景に出会い、道を間違えたと感じ、いったんUターンした。でも間違っていなかった。そのときのことを書いた、と説明した。
「いつもと違う感じ、道に迷った感じがよく出ている」「いままで気がつかなかったものに気づく。道は間違っていなかったと感じたときのことがわかりやすく書かれている」「でも、最後の『あーあ』は何だろうか」「安心したのか、むだなことをしたとため息をついているのか」
これは、なかなかむずかしい。どちらでもいいと思うし、どちらかがわかるように書けば納得するというものでもないかもしれない。
この詩でいちばんおもしろいのは三連目。道に迷ったときの感じが具体的に書かれている。「仮囲い」「更地」「新しい家」。
考えてみたいのは、「あんな」ということば。「あんな」「そんな」「こんな」。これによって、「迷い方」が違って感じられるのではないだろうか。
「あんなとこんなは、どう違う?」
「あんなは遠いけれど、こんなは近い」
ここからが問題。どちらが「迷っている感じ」が強くなるか。
これはたぶん書き手によっても受け手によっても違うので、どちらとは言えないが、私は「こんな」の方が「身近」で迷いが強いと思う。
こんな仮囲いはなかった/こんなところに仮囲い(がある)の方が、「もの」が迫ってきて、認識を混乱させている感じがする。「あんな」よりも「こんな」の方が主観性が強い。
あるいは「こんな」「そんな」「あんな」を組み合わせて書くと、空間が複雑になるとおもう。「こんな仮囲いはなかった/そんな更地もなかった/あんなに新しい家も」にすると、視線がさまよう感じになる。車を運転しているので、こんな具合に視点がさまよってはいけないのかもしれないが。
そんなふうに迷うと、最後の「あーあ」もずいぶん変わってくる。一つの意味ではなくなる。「安心」もあれば「むだをしたなあ」という気持ちもある。さらには、「がっかりした」という感じも生まれてくるかもしれない。迷い続け、迷宮にはりこみ、そこから出てれなくなればよかったのに、という思いに突き動かされた「あーあ」になるかもしれない。
この詩について、池田がおもしろいことを言った。「感情というか、悲しみやよろこびみたいなものを書かなくても詩なんだろうか」。
私は、詩だといいたい。
美しいもの、すばらしいものに感動する。悲しみに沈む。その「気持ち」を書いた詩もあるが、人間の「思い」はもっといろいろなものが組み合わさっている。こころが動いているならば、それは全部、詩。
三連目がおもしろいのは、三連目ではこころの動き、迷いがそのままいろいろなことばになって具体的に書かれている。「風景がいつもと違って見えて道を間違えたと錯覚したけれど、道を間違えたわけではなく、いつものように家に帰れた」では、「結果報告」になってしまう。「結果」ではなく、途中経過をリアルに書けばいいのだと思う。リアルに書くために「あんな」「こんな」「そんな」を考えてみるといいのだと思う。
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怒っているの? 徳永孝
じっと一点をにらみ
ひたいにしわをよせて
口をむすび
動かない
どうしたの?
怒っているの?
それとも何かなやみ?
いいえ
考えているんです
見たこと聞いたことを思い出し
想像し…
土の中の虫
木にむらがる昆虫
空をとぶ鳥
火星のそら
宇宙人の住む星
みんなどんな生活をしているのかな?
歯みがきしなさいとか
顔を洗いなさいとか
言われないんだろうなあ
数学の世界
論理の宇宙で
遊んでいます
コンピューターのプログラミングを考えているとき、いつもと違った雰囲気になる。そのときの様子を書いたと説明した。
でも、なぜタイトルが「怒っているの?」なのか。もし、何かを真剣に考えているときのことを書いているのなら、違うことばでもいいのではないだろうか。
徳永は「怒っている、が他人と自分との格差がいちばん大きいから」と説明した。
これだね。
自分と他人が違う。その違いが「大きく見える」。そこに詩がある。もちろん、その「違い」は「同じ」という共感に結びつかないといけないのだけれど、違いが大きい方が「同じ」にたどりついたとき感動が大きくなる。
池田が「えっ」について「悲しい、というような感情を書かなくていいのだろうか」と言ったが、悲しいというような感情は、わりと「わかりやすい」。だから「共感」もしやすい。だからこそ、読んだときに「驚き」が少ない。「共感」というのは、自分のなかにもそういう感情があったのだと発見することが大切。「悲しい」ひとをなぐさめるだけではなく、それと同じ「悲しみ」が自分のなかにあるということを発見したとき「共感」する。詩は、共感を呼び覚ますことばの運動でなければならない。
さて。
なぜ、「怒っているの?」というタイトルがいいのか。もちろん、「怒っていない」から「怒っているの?」がいちばんおもしろい。
でも、コンピューターのプログラミングを考えている、ということが、この詩から伝わるだろうか。
四連目と五連目のあいだに、大きな飛躍がある。
四連目は、三連目の「想像し」を受けて、想像したことを書いている。身近な虫からはじまり、火星に飛躍する。さらに宇宙には歯磨きしなさいと叱るひとはいるのかと想像している。池田が書いた「あんな仮囲い」のように、ここには具体的なことが書かれていて、楽しい。具体的というのは、その人だけが体験したことであり、同時に、いわれてみるとそういう体験をしたことがあるなあと思い出させてくれる何かである。
五連目は、それをさらに別の角度から言い直したものなのだが、それは「想像」ではなく、むしろ現実に属する。
徳永は、「コンピューターのプラミングを考えている。それは数字と論理の世界。そういうことに集中していると、一点をにらみ、額に皺をよせる、というようなことが起きる。それを見たひとは怒っているのか、悩んでいるのかと思うけれど、実は怒っても悩んでもいない」と詩の背景を語った。
説明されれば、そうなのか、と思う。でも、説明されて、そうなのかと思うのでは「共感」にならない。
池田の詩について語るときつかったことばで言い直せば、五連目は「結果報告(結論)」になってしまっている。「結論」は書いているひとにとっては重要だろうが、読者にとっては「途中経過」の方が重要である。「途中経過」が納得できないと「結論」は納得できない。「結論」に納得したいのではなく、読者は「途中経過」に参加したいのだ。すくなくとも、私はそうである。
もし「数学の世界/論理の宇宙」と格闘していることを書くのだったら、どんな具合に格闘しているかを書いた方がいいだろう。そのとき「数学/論理」をどんなふうに具体化するかはむずかしいが。
*
水踏む音 青柳俊哉
影たちが岸辺をあるいていく
黒い豆粒をしきつめた膨張した頭部の
細い細い絹糸のような目が
不思議そうに人間をみつめる
人間の肢体(したい)をみつめている
機械的な 模型的な 妖(あや)しい死のリズムをふくむ
ふるえる もえる身体をひきずり
赤くやけただれた時空の殻(から)をすて
隔絶した 透明な 傷つきはてた影たちが
原生の沼の岸辺を ひたひたひたひた
きよらかな水踏む音を
響かせてあるいていく
青柳は、原民雄の「草の花」を読んで、そのときの印象から書き始めたと言った。現実の体験ではなく、小説を読んだときの体験。「原民雄の小説のことばからの引用もある」とつけくわえた。
「黒い豆粒をしきつめた膨張した頭部」がイメージしにくいという声もあったが、これは被爆したひとの様子だろう。被曝すると顔(頭部)がふくれるといわれる。被曝を語ったことばにどれだけ触れてきたか、被曝をつたえるものをどれだけ見てきたかが、ことばを理解するときに影響するだろうと思う。
この詩には「黒い豆粒をしきつめた膨張した頭部」のように、いま、私たちが現実に見ることができるものとは違う何かが書かれているが、同時に、いまもつかうけれど、こんなふうにつかわないなあ、ということばもある。
不思議そうに人間をみつめる
これは、読めばそのまま意味はわかるが、なかなかこういうふうにつかわない。たとえば通勤時、列車が混雑している。駅が混雑している。スーパーで大売り出しがある。その人込みを見たとき、なんというだろうか。
「人間がたくさんいる」とは、なかなか言わない。たいていは「ひとがたくさんいる」という。人間とひとはおなじものだが、つかい方が微妙に違う。
なぜ、ここでは「人間」ということばなのだろうか。
「まだ生きている」「死にかけているけれど、まだ生きている」「何か異様な感じがする」
「ひと」とは呼びにくい何かがある。「ひと」というとき、私たちはその「ひと」と私を区別していない。「人間」というとき、「ひと」の形はしているが「ひと」ではない、という感じ、ふつうではない何かが入り込んでいる。
それは、
機械的な 模型的な 妖しい死のリズムをふくむ
ということばにも現れている。「死」ということばをつかわざるを得ない何かがそこにある。「人間」はさらに、
隔絶した 透明な 傷つきはてた影たち
とも言い直されている。
こうした言い直しは、池田が「あんな仮囲い」と書いていることに通じる「具体的な事実」である。青柳だけが見た「現実」である。そして、それは青柳だけが見たことであるけれど、私たちの体験を揺さぶる。原爆資料館で見たものや、何人もの語り部が語ってきたことを呼び覚ます。
そういうつらく苦しい「体験」が「祈り」としての「共感」を呼び覚ます。
きよらかな水踏む音を
響かせてあるいていく
この「きよらかな水踏む音」を正確に把握するのはむずかしい。「きよらかな」は何を修飾しているのか。「水」か「音」か。たぶん、区別はできない。区別する必要がない。水も清らかだし、音も清らかなのだ。苦痛に満ちた世界だけれど、そこに「きよらかな」何かを求めるものがある。そう信じたい。「救い」への祈りが、そういうことばを必要としている。
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