詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

青柳俊哉「蝉声」、池田清子「最近の」、徳永孝「川の流れの中で」

2020-08-08 17:48:16 | 現代詩講座
青柳俊哉「蝉声」、池田清子「最近の」、徳永孝「川の流れの中で」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年08月03日)

蝉声(せんせい)   青柳俊哉

過去のない砂にこだまする
ヒグラシの声
心のなりやまない青空を
急ぎかけぬけていく意識のかげ
夏の日盛(ひざか)りの庭におちている
漆黒(しっこく)の羽いちまい 
わたしの中に住む遠いだれかの
ぬりかわる記憶の岸にかかっている
深々(しんしん)とふりつづける
時のない蝉声
刳(く)りぬかれた壁面の青空

 「過去のない砂」「心のなりやまない青空」「刳りぬかれた壁面の青空」。かっこいいことばである。ことばのかっこよさに、ちょっと目が眩む。何が書いてあるか、わからない。けれど、かっこいいことはたしかだ。
 そういう意見が出た。これを言い直すと、どうなるか。
 ことばのひとつひとつはわかるが、それが具体的に何を指しているかはわからない。具体的な「もの」ではなく、心象風景が、ことばによってできあがっている。全体としては、真夏の庭の、蝉の声が響く世界ということはわかるが、細部を自分自身のことばで説明しなおす(読み解く)というのは、むずかしい。
 こういうとき、どうするか。
 似たことばをさがす。どんなことでも、ひとことで的確に表現するのはむずかしい。だから、ひとは言い直す。その言い直しをつないで、重なるものを手がかりにする。
 「過去のない砂」。いちばん近いのは「時のない蝉声」。これに「心のなりやまない」が重なる。「ない」ということばが共通している。「過去=時=心」が「ない」。「心」は「なりやまない」とつづいているのだが、「なりやむ」(ここにも中止、否定がある)をいったん保留する。「心」は「意識」とも言い換えられている。「時間の意識」は「記憶」と言い直される。これを重ねあわせると、「無時間」と「無我(心=意識/記憶)」の世界が浮かびあがる。時間と意識を超越した全体的な「場」があり、その絶対的な場をつくりだしているのが「蝉声」なのだ。
 「蝉声」のなかで、青柳は何を見たか。感じたか。感じながら、それをさらに「無」へと転換させたか。
 庭に落ちている「漆黒(しっこく)の羽いちまい」。これはカラスの羽か、黒い蝶の羽か。わからないが、「漆黒」の「黒」は「かげ」につうじる。そしてその「かげ」が「意識のかげ」なら、そこに落ちているのは「自我(自意識/心)」そのものだろう。そして、それは「過去」をもっている。つまり、「私の中に住む遠いだれか」としか言いようのない「自己」なのである。「遠い」は「未来」ではなく「過去」を指していると考えていいだろう。
 「ぬりかわる記憶の岸にかかっている」という一行には、「主語」が明確には示されていない。「何が」かかっているのか。私はそれを「漆黒の羽いちまい」と読む。そしてその「漆黒の羽」を「過去の私、自意識、自我、心」と読む。
 そうすると、ここに描かれている「世界」が理解できる。
 真昼、何もない庭に、蝉の声が響いている(聴覚)。そこで一枚の漆黒の羽を見る(視覚)。漆黒の羽は「自己/我」そのものである。つまり、羽の漆黒(真昼の光とは正反対のもの)を見た瞬間に、過去が噴出し、自己を覚醒させる。「いま」と「過去」がぶつかり、「いま」でも「過去」でもない「瞬間」があらわれる。そのとき聞くのは何か、見るのは何か。「羽の漆黒」は吹き飛ばされ、「時のない蝉声」「刳りぬかれた壁面の青空」があらわれるのだ。
 最後の「刳りぬかれた壁面の青空」は、イメージするのがむずかしいかもしれない。「壁」があって、そこに窓のようにくりぬかれた空間があり、そこから青空が見えるというのではないだろう。世界にある「壁」そのものが「くりぬかれる」。「無」としての「壁」があらわれる。絶対的な「無の壁」。その向こうに青空が広がる。
 ここには「絶対」がある。
 「絶対」に触れたときの、意識の覚醒そのものが、真夏の光のようにとらえられている。イメージのぶつかり合いが鮮烈だ。



最近の  池田清子

言ったよね
頑張れって
生きてって
頑張ったよね 生きたよね
飼い主のエゴだった?
もういいよって言ったら
腕の中で すーと逝った
十六歳の やさしいうさぎ追い

在宅から 緩和病棟へ
麻薬がきいて 痛みはない
心療内科の先生に
気持ちの持ちようがむずかしい と話していた
あなたの存在が私には大切なの と伝えた
「だから、がんばってきた」と。
もう何もいえなかった
貼る点滴がはじまった

安楽死 嘱託殺人
最近の
たくさんの記事に 揺れる

 「一連目だけでいいのではないか」「いいたいのは二連目のことだと思う。むしろ、一連目がいらない」「三連目の安楽死、嘱託殺人ということばにはなじめない。詩に持ち込むのはどうか」。そういう意見が出た。
 この詩には、読むときの「ポイント」のようなものが二つある。
 ひとつは一連目の「やさしいうさぎ追い」である。何を指しているか。「飼い主」ということばがある。つまり私が飼っている何かなのだ。「十六歳」ということばを手がかりにすれば、十六年間生きた飼い犬だろう。うさぎを追いかけることを仕事としていた犬である。もちろん、実際にうさぎを追うということは都会ではできないから、犬種を説明するのにそのことばがつかわれているだけである。
 ここには、飼い主(私)と飼われている犬の関係が、飼い主から描かれていることになる。
 二連目には「私」と「あなた」が出てくる。「あなた」は「飼い犬」ではないし、「十六歳」でもない。「緩和病棟」ということばを手がかりにすれば、「あなた」の病状は重く、死期が近い。どう向き合えばいいのか。
 一連目、「もういいよ」と言ったら、飼い犬は無言のまま、安らかに息を引き取った。
 二連目では、会話がある。

あなたの存在が私には大切なの と伝えた
「だから、がんばってきた」と。

 「伝えた」のは「私」。「だから、がんばってきた」と答えたのは「あなた」。「だから、がんばってきた」には主語も述語もない。それを補って読む。
 ここでは一連目がくりかえされているのだ。「私」は「頑張って、生きて」と言った。なぜなら「あなた」は大切な存在だから。それに対して「あなた」は「(知っている、わかっている)だから、がんばってきた」と答えた。これは、二人の「最後の対話」なのだ。
 書かれていないことばを補って読む、ということが、詩にかぎらず、あらゆる文学にとって重要なポイントである。
 ことばは、それが大事であればあるほど、つまり作者にとってわかりきっていればいるほど、それが省略されてしまう。言う必要がないからだ。この省略されたことばを補うとき、読者は作者になる。読者は作者と一体になる。
 そして、いい詩というのは、こういう「一体感」へと読者を導くように、自然にことばが動いている作品を言う。
 二連目にことばを補い、作者そのものとして生きるとき、三連目の「揺れ」は読者自身の「揺れ」になる。



川の流れの中で   徳永孝

川の流れの中に
ひとりぽつんと立っている

いろんな人や
出来事や
物が
来ては去っていく

時々 また戻ってこないかな とも思うけど
だれも 何も 戻ってこない

私はここに立ちつづけ
また新しい人や物に出会う

以前の出来事 覚えた感情は
ぼらけて淡く心の奥に沈んでいく

 「川の中に立って流れていくものをみつめていく感じがわかる」「三連目が少し理解しにくい」。
 なぜ、わかりにくいのだろうか。
 最終連に書かれていることが、「私はここに立ちつづけ/また新しい人や物に出会う」ことで生まれてくる現実(心象の描写)ではないからではないだろうか。
 「心の奥に沈んでいく」は「来ては去っていく」いろいろな人や物。それは「戻ってこない」もの。
 つまり、最終連に書かれていることは、一、二、三連で書かれたことを、もう一度言い直したものになる。それが「私はここに立ちつづけ/また新しい人や物に出会う」のあとに出てくるので、それでは「新しい人や物」はどこへ行ってしまうのかという疑問がおきる。これが詩を分かりにくくする。
 時系列が乱れているのではないだろうか。
 四連目と五連目を入れ替えてみると印象が違ってくると思う。一連目の「立っている」と「立ちつづけ」の呼応も明確になると思う。「起承転結」というスタイルになると思う。「起承転結」だけが詩のスタイルではないけれど、「起承転結」になるようにことばを動かしてみると、書きたいことがより明確になるときもある。
 池田の詩の二連目のように、「結」ではなく、途中に出てくることばが強くこころにのこりつづけるということも起きる。いちばんいいたいことを最後に書く必要はない。詩は論文ではないのだから。
 




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感染状況ステージ?

2020-08-08 11:12:59 | 自民党憲法改正草案を読む
感染状況ステージ?
   自民党憲法改正草案を読む/番外373(情報の読み方)

 2020年08月08日の読売新聞(西部版・14版)の1面。新型コロナを巡る問題。

感染状況 4ステージ/病床逼迫・療養数 6指標目安に

 という見出し。なぜ、いまごろやっとなのか。こんなことは2月のクルーズ船のときにやっておくことだろう。そういう批判をせずに、「コロナ分科会」が指標を決めたと報道しても意味はない。

国や都道府県に感染状況を把握してもらい、機動的な対応を促す考えだ。

 と記事の「前文」にあるが、なんとのんきな「書き方」だろう。すでに「数字(指標)」をたよりに現状を分析する段階ではなく、現場から「数字(指標)」を再点検し(現状を反映させて)、その「指標」でいいのかどうかが問われているときだろう。(37・5度が4日間、という指標が見直されたように。)
 国が(安倍が)、現実を見ようとしていないことは、社会面の記事を見てもわかる。

お盆 帰省どうする/国指針なく 知事 割れる賛否

 記事は読まなくてもわかることしか書いていない。そして、この「わかることしか書いていない」ということは、ほんとうに大切なことは書いていないということだ。
 読売新聞の見出しでは「国指針なく」という文字は小さく、「知事 割れる賛否」の方が大きい。まるで、知事の判断が割れているために、国民がどう行動していいかわからなくなっている、という感じだが。
 おかしいだろう。
 国がきちんと「指針」を示せば、知事が右往左往する必要はない。知事が「賛否」を言うにしても、それは「国の指針」に対して言うことであって、国民の「お盆帰省する/お盆帰省しない」という「個別の案件」について賛否を言うべきではないだろう。言うにしても、「国がこういう方針を示しているから、それにあわせてください」くらいだろう。お盆帰省は「各自治体(都道府県)内部」の問題ではなく、「県境」を超えた「広域(国全体)」の問題である。
 安倍がやっていることは「地方自治体への責任の丸投げ」である。お盆帰省をどうするか、各都道府県が決めればいい。個人の行動だから、個人が決めればいい、という「すべて丸投げ」。「ぼくちゃん、何もしていない。だから、ぼくちゃん、悪くない」が安倍の口癖(正面切っていうわけではないが)。だが、何もしないから、それが悪い(問題)なのだ。

 現象を報道する。そのとき「現象」とは何か。
 「お盆帰省」について、各県の知事の「呼びかけ」が違っていると一覧表までつくって読売新聞は報道している。その知事の「発言」はたしかに各知事が言ったことを「正確に」報道している。「嘘」を伝えているわけではない。
 しかし、各知事がなぜそういう発言をしたのか。その「理由」(根拠)を省略しては、いったい、この国で何が起きているかがわからない。
 国は(安倍は)何も言っていない。だから、各知事は、せめて自分の管轄している住民の健康を守ろうとして、発言しているのだ。「原因」は安倍が何も言わないことにあるのだ。
 見出しは、

お盆帰省 国指針なし/知事困惑、対応ばらばら

 であるべきなのだ。
 国に指針がなく、知事の対応(発言)がばらばらだから、国民はどうしていいかわからない、という状態になっている。そういうことを伝えるべきなのに、安倍に遠慮して、安倍の「沈黙作戦」に加担している。
 安倍はやるべきことを何もしていない。それなのに「感染状況4ステージ」という時期外れの「指針」を分科会に出させて、何かやっているふりをしている。
 そのことを追及すべきだろう。

 報道はなによりも「視点」が大事なのだ。どこから見るかによって「事実」は様々な姿を見せる。どうやってその「事実の多様性」を伝えるかが問われているのに、「安倍の視点で記事を書かないと、広告をまわしてもらえない」と「広告獲得優先」(経営保身)で書いてしまっている。
 もちろん、「露骨」には、そういう表現をとらない。
 だからこそ、よけいに問題なのだ。
 社会面の記事は、「お盆の帰省、どうすればいいんだろう」と悩んでいる国民の声を伝えているようで、実は「国は何もしていない」という事実から目をそらさせるように書かれている。悪いのは国(安倍)ではなく、統一方針が出せない知事だ、知事が悪いんだという印象を誘うように書かれている。知事が悪いは、「〇県知事は自粛といっているのに、●県知事は規制しないといっている」という批判の形で、両方に向けられるのだ。帰省できなかったひとは、帰省させない知事が悪いといい、帰省によって感染が拡大することをおそれるひとは規制しない知事が悪いという。その結果、何が起こるか。
 国民の分断がおきる。
 いま、安倍がやっていることは、国民を分断させること。一致させないこと。分断が広がれば広がるほど、それを統一する「権力」が求められる。安倍の支持率は下がっているが、それを回復するために、こんななくあくどいことをやり始めたのだ。つまり、国民をコロナに感染させ、不安をあおり、分断を推し進め、「統一者を求める声」が沸き上がるのを待つ、という作戦だ。安倍にとっては、コロナ感染が拡大することは、好都合なのだ。ひとは安倍を批判するために「団結」できない。個別の批判があちこちで展開されるだけで、「大衆の声」として組織されることはない。「組織する」というのは、どうしても「蜜」になることだが、その「蜜」は「コロナ感染予防」と言えばすぐに「解散させる」ことができる。

 どうやって「声」を組織化することができるか。
 マスコミに問われているのは、実はそのことだと思う。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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