青柳俊哉「蝉声」、池田清子「最近の」、徳永孝「川の流れの中で」(朝日カルチャーセンター福岡、2020年08月03日)
「過去のない砂」「心のなりやまない青空」「刳りぬかれた壁面の青空」。かっこいいことばである。ことばのかっこよさに、ちょっと目が眩む。何が書いてあるか、わからない。けれど、かっこいいことはたしかだ。
そういう意見が出た。これを言い直すと、どうなるか。
ことばのひとつひとつはわかるが、それが具体的に何を指しているかはわからない。具体的な「もの」ではなく、心象風景が、ことばによってできあがっている。全体としては、真夏の庭の、蝉の声が響く世界ということはわかるが、細部を自分自身のことばで説明しなおす(読み解く)というのは、むずかしい。
こういうとき、どうするか。
似たことばをさがす。どんなことでも、ひとことで的確に表現するのはむずかしい。だから、ひとは言い直す。その言い直しをつないで、重なるものを手がかりにする。
「過去のない砂」。いちばん近いのは「時のない蝉声」。これに「心のなりやまない」が重なる。「ない」ということばが共通している。「過去=時=心」が「ない」。「心」は「なりやまない」とつづいているのだが、「なりやむ」(ここにも中止、否定がある)をいったん保留する。「心」は「意識」とも言い換えられている。「時間の意識」は「記憶」と言い直される。これを重ねあわせると、「無時間」と「無我(心=意識/記憶)」の世界が浮かびあがる。時間と意識を超越した全体的な「場」があり、その絶対的な場をつくりだしているのが「蝉声」なのだ。
「蝉声」のなかで、青柳は何を見たか。感じたか。感じながら、それをさらに「無」へと転換させたか。
庭に落ちている「漆黒(しっこく)の羽いちまい」。これはカラスの羽か、黒い蝶の羽か。わからないが、「漆黒」の「黒」は「かげ」につうじる。そしてその「かげ」が「意識のかげ」なら、そこに落ちているのは「自我(自意識/心)」そのものだろう。そして、それは「過去」をもっている。つまり、「私の中に住む遠いだれか」としか言いようのない「自己」なのである。「遠い」は「未来」ではなく「過去」を指していると考えていいだろう。
「ぬりかわる記憶の岸にかかっている」という一行には、「主語」が明確には示されていない。「何が」かかっているのか。私はそれを「漆黒の羽いちまい」と読む。そしてその「漆黒の羽」を「過去の私、自意識、自我、心」と読む。
そうすると、ここに描かれている「世界」が理解できる。
真昼、何もない庭に、蝉の声が響いている(聴覚)。そこで一枚の漆黒の羽を見る(視覚)。漆黒の羽は「自己/我」そのものである。つまり、羽の漆黒(真昼の光とは正反対のもの)を見た瞬間に、過去が噴出し、自己を覚醒させる。「いま」と「過去」がぶつかり、「いま」でも「過去」でもない「瞬間」があらわれる。そのとき聞くのは何か、見るのは何か。「羽の漆黒」は吹き飛ばされ、「時のない蝉声」「刳りぬかれた壁面の青空」があらわれるのだ。
最後の「刳りぬかれた壁面の青空」は、イメージするのがむずかしいかもしれない。「壁」があって、そこに窓のようにくりぬかれた空間があり、そこから青空が見えるというのではないだろう。世界にある「壁」そのものが「くりぬかれる」。「無」としての「壁」があらわれる。絶対的な「無の壁」。その向こうに青空が広がる。
ここには「絶対」がある。
「絶対」に触れたときの、意識の覚醒そのものが、真夏の光のようにとらえられている。イメージのぶつかり合いが鮮烈だ。
*
「一連目だけでいいのではないか」「いいたいのは二連目のことだと思う。むしろ、一連目がいらない」「三連目の安楽死、嘱託殺人ということばにはなじめない。詩に持ち込むのはどうか」。そういう意見が出た。
この詩には、読むときの「ポイント」のようなものが二つある。
ひとつは一連目の「やさしいうさぎ追い」である。何を指しているか。「飼い主」ということばがある。つまり私が飼っている何かなのだ。「十六歳」ということばを手がかりにすれば、十六年間生きた飼い犬だろう。うさぎを追いかけることを仕事としていた犬である。もちろん、実際にうさぎを追うということは都会ではできないから、犬種を説明するのにそのことばがつかわれているだけである。
ここには、飼い主(私)と飼われている犬の関係が、飼い主から描かれていることになる。
二連目には「私」と「あなた」が出てくる。「あなた」は「飼い犬」ではないし、「十六歳」でもない。「緩和病棟」ということばを手がかりにすれば、「あなた」の病状は重く、死期が近い。どう向き合えばいいのか。
一連目、「もういいよ」と言ったら、飼い犬は無言のまま、安らかに息を引き取った。
二連目では、会話がある。
「伝えた」のは「私」。「だから、がんばってきた」と答えたのは「あなた」。「だから、がんばってきた」には主語も述語もない。それを補って読む。
ここでは一連目がくりかえされているのだ。「私」は「頑張って、生きて」と言った。なぜなら「あなた」は大切な存在だから。それに対して「あなた」は「(知っている、わかっている)だから、がんばってきた」と答えた。これは、二人の「最後の対話」なのだ。
書かれていないことばを補って読む、ということが、詩にかぎらず、あらゆる文学にとって重要なポイントである。
ことばは、それが大事であればあるほど、つまり作者にとってわかりきっていればいるほど、それが省略されてしまう。言う必要がないからだ。この省略されたことばを補うとき、読者は作者になる。読者は作者と一体になる。
そして、いい詩というのは、こういう「一体感」へと読者を導くように、自然にことばが動いている作品を言う。
二連目にことばを補い、作者そのものとして生きるとき、三連目の「揺れ」は読者自身の「揺れ」になる。
*
「川の中に立って流れていくものをみつめていく感じがわかる」「三連目が少し理解しにくい」。
なぜ、わかりにくいのだろうか。
最終連に書かれていることが、「私はここに立ちつづけ/また新しい人や物に出会う」ことで生まれてくる現実(心象の描写)ではないからではないだろうか。
「心の奥に沈んでいく」は「来ては去っていく」いろいろな人や物。それは「戻ってこない」もの。
つまり、最終連に書かれていることは、一、二、三連で書かれたことを、もう一度言い直したものになる。それが「私はここに立ちつづけ/また新しい人や物に出会う」のあとに出てくるので、それでは「新しい人や物」はどこへ行ってしまうのかという疑問がおきる。これが詩を分かりにくくする。
時系列が乱れているのではないだろうか。
四連目と五連目を入れ替えてみると印象が違ってくると思う。一連目の「立っている」と「立ちつづけ」の呼応も明確になると思う。「起承転結」というスタイルになると思う。「起承転結」だけが詩のスタイルではないけれど、「起承転結」になるようにことばを動かしてみると、書きたいことがより明確になるときもある。
池田の詩の二連目のように、「結」ではなく、途中に出てくることばが強くこころにのこりつづけるということも起きる。いちばんいいたいことを最後に書く必要はない。詩は論文ではないのだから。
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蝉声(せんせい) 青柳俊哉
過去のない砂にこだまする
ヒグラシの声
心のなりやまない青空を
急ぎかけぬけていく意識のかげ
夏の日盛(ひざか)りの庭におちている
漆黒(しっこく)の羽いちまい
わたしの中に住む遠いだれかの
ぬりかわる記憶の岸にかかっている
深々(しんしん)とふりつづける
時のない蝉声
刳(く)りぬかれた壁面の青空
「過去のない砂」「心のなりやまない青空」「刳りぬかれた壁面の青空」。かっこいいことばである。ことばのかっこよさに、ちょっと目が眩む。何が書いてあるか、わからない。けれど、かっこいいことはたしかだ。
そういう意見が出た。これを言い直すと、どうなるか。
ことばのひとつひとつはわかるが、それが具体的に何を指しているかはわからない。具体的な「もの」ではなく、心象風景が、ことばによってできあがっている。全体としては、真夏の庭の、蝉の声が響く世界ということはわかるが、細部を自分自身のことばで説明しなおす(読み解く)というのは、むずかしい。
こういうとき、どうするか。
似たことばをさがす。どんなことでも、ひとことで的確に表現するのはむずかしい。だから、ひとは言い直す。その言い直しをつないで、重なるものを手がかりにする。
「過去のない砂」。いちばん近いのは「時のない蝉声」。これに「心のなりやまない」が重なる。「ない」ということばが共通している。「過去=時=心」が「ない」。「心」は「なりやまない」とつづいているのだが、「なりやむ」(ここにも中止、否定がある)をいったん保留する。「心」は「意識」とも言い換えられている。「時間の意識」は「記憶」と言い直される。これを重ねあわせると、「無時間」と「無我(心=意識/記憶)」の世界が浮かびあがる。時間と意識を超越した全体的な「場」があり、その絶対的な場をつくりだしているのが「蝉声」なのだ。
「蝉声」のなかで、青柳は何を見たか。感じたか。感じながら、それをさらに「無」へと転換させたか。
庭に落ちている「漆黒(しっこく)の羽いちまい」。これはカラスの羽か、黒い蝶の羽か。わからないが、「漆黒」の「黒」は「かげ」につうじる。そしてその「かげ」が「意識のかげ」なら、そこに落ちているのは「自我(自意識/心)」そのものだろう。そして、それは「過去」をもっている。つまり、「私の中に住む遠いだれか」としか言いようのない「自己」なのである。「遠い」は「未来」ではなく「過去」を指していると考えていいだろう。
「ぬりかわる記憶の岸にかかっている」という一行には、「主語」が明確には示されていない。「何が」かかっているのか。私はそれを「漆黒の羽いちまい」と読む。そしてその「漆黒の羽」を「過去の私、自意識、自我、心」と読む。
そうすると、ここに描かれている「世界」が理解できる。
真昼、何もない庭に、蝉の声が響いている(聴覚)。そこで一枚の漆黒の羽を見る(視覚)。漆黒の羽は「自己/我」そのものである。つまり、羽の漆黒(真昼の光とは正反対のもの)を見た瞬間に、過去が噴出し、自己を覚醒させる。「いま」と「過去」がぶつかり、「いま」でも「過去」でもない「瞬間」があらわれる。そのとき聞くのは何か、見るのは何か。「羽の漆黒」は吹き飛ばされ、「時のない蝉声」「刳りぬかれた壁面の青空」があらわれるのだ。
最後の「刳りぬかれた壁面の青空」は、イメージするのがむずかしいかもしれない。「壁」があって、そこに窓のようにくりぬかれた空間があり、そこから青空が見えるというのではないだろう。世界にある「壁」そのものが「くりぬかれる」。「無」としての「壁」があらわれる。絶対的な「無の壁」。その向こうに青空が広がる。
ここには「絶対」がある。
「絶対」に触れたときの、意識の覚醒そのものが、真夏の光のようにとらえられている。イメージのぶつかり合いが鮮烈だ。
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最近の 池田清子
言ったよね
頑張れって
生きてって
頑張ったよね 生きたよね
飼い主のエゴだった?
もういいよって言ったら
腕の中で すーと逝った
十六歳の やさしいうさぎ追い
在宅から 緩和病棟へ
麻薬がきいて 痛みはない
心療内科の先生に
気持ちの持ちようがむずかしい と話していた
あなたの存在が私には大切なの と伝えた
「だから、がんばってきた」と。
もう何もいえなかった
貼る点滴がはじまった
安楽死 嘱託殺人
最近の
たくさんの記事に 揺れる
「一連目だけでいいのではないか」「いいたいのは二連目のことだと思う。むしろ、一連目がいらない」「三連目の安楽死、嘱託殺人ということばにはなじめない。詩に持ち込むのはどうか」。そういう意見が出た。
この詩には、読むときの「ポイント」のようなものが二つある。
ひとつは一連目の「やさしいうさぎ追い」である。何を指しているか。「飼い主」ということばがある。つまり私が飼っている何かなのだ。「十六歳」ということばを手がかりにすれば、十六年間生きた飼い犬だろう。うさぎを追いかけることを仕事としていた犬である。もちろん、実際にうさぎを追うということは都会ではできないから、犬種を説明するのにそのことばがつかわれているだけである。
ここには、飼い主(私)と飼われている犬の関係が、飼い主から描かれていることになる。
二連目には「私」と「あなた」が出てくる。「あなた」は「飼い犬」ではないし、「十六歳」でもない。「緩和病棟」ということばを手がかりにすれば、「あなた」の病状は重く、死期が近い。どう向き合えばいいのか。
一連目、「もういいよ」と言ったら、飼い犬は無言のまま、安らかに息を引き取った。
二連目では、会話がある。
あなたの存在が私には大切なの と伝えた
「だから、がんばってきた」と。
「伝えた」のは「私」。「だから、がんばってきた」と答えたのは「あなた」。「だから、がんばってきた」には主語も述語もない。それを補って読む。
ここでは一連目がくりかえされているのだ。「私」は「頑張って、生きて」と言った。なぜなら「あなた」は大切な存在だから。それに対して「あなた」は「(知っている、わかっている)だから、がんばってきた」と答えた。これは、二人の「最後の対話」なのだ。
書かれていないことばを補って読む、ということが、詩にかぎらず、あらゆる文学にとって重要なポイントである。
ことばは、それが大事であればあるほど、つまり作者にとってわかりきっていればいるほど、それが省略されてしまう。言う必要がないからだ。この省略されたことばを補うとき、読者は作者になる。読者は作者と一体になる。
そして、いい詩というのは、こういう「一体感」へと読者を導くように、自然にことばが動いている作品を言う。
二連目にことばを補い、作者そのものとして生きるとき、三連目の「揺れ」は読者自身の「揺れ」になる。
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川の流れの中で 徳永孝
川の流れの中に
ひとりぽつんと立っている
いろんな人や
出来事や
物が
来ては去っていく
時々 また戻ってこないかな とも思うけど
だれも 何も 戻ってこない
私はここに立ちつづけ
また新しい人や物に出会う
以前の出来事 覚えた感情は
ぼらけて淡く心の奥に沈んでいく
「川の中に立って流れていくものをみつめていく感じがわかる」「三連目が少し理解しにくい」。
なぜ、わかりにくいのだろうか。
最終連に書かれていることが、「私はここに立ちつづけ/また新しい人や物に出会う」ことで生まれてくる現実(心象の描写)ではないからではないだろうか。
「心の奥に沈んでいく」は「来ては去っていく」いろいろな人や物。それは「戻ってこない」もの。
つまり、最終連に書かれていることは、一、二、三連で書かれたことを、もう一度言い直したものになる。それが「私はここに立ちつづけ/また新しい人や物に出会う」のあとに出てくるので、それでは「新しい人や物」はどこへ行ってしまうのかという疑問がおきる。これが詩を分かりにくくする。
時系列が乱れているのではないだろうか。
四連目と五連目を入れ替えてみると印象が違ってくると思う。一連目の「立っている」と「立ちつづけ」の呼応も明確になると思う。「起承転結」というスタイルになると思う。「起承転結」だけが詩のスタイルではないけれど、「起承転結」になるようにことばを動かしてみると、書きたいことがより明確になるときもある。
池田の詩の二連目のように、「結」ではなく、途中に出てくることばが強くこころにのこりつづけるということも起きる。いちばんいいたいことを最後に書く必要はない。詩は論文ではないのだから。
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講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
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少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
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