河邉由紀恵「蝋梅」、田中澄子「彼女は 彼に」(「どぅにかまら」28、2020年07月10日発行)
ことばと対象との距離は、言い直せばリズムになると思う。対象に向き合うときの、その位置が、おのずとことばのリズムを決定する。そのリズムが一定であるとき、その作品を安心して読むことができる。
ことばを読むのだから、「安心」が絶対というわけではない。むしろ、「不安」が重要というときもある。しかしその「不安」にも一定のリズムがないと、私は、そのことばについていけない。
というようなことは、いくら書いても何も書いたことにならないなあ。
河邉由紀恵「蝋梅」は、こうはじまる。
しらしらとつめたい冬の灯の真昼のおりの床の間の隅に
置いた黄土色の古い信楽の壺の中にきのうの庭に咲いた
蝋梅のながい枝を二本いれれば周りはたちまちその蝋梅
のむうとした甘くて濃い匂いに満ちてきてあたりはもう
息がつまるほどの芳香にあふれてわたくしは心がふれて
しまいそうに感じながらその蝋梅の花びらというものは
蝋細工のように濁りをそなえた透明な黄色であり花の色
ことばが切れ目なくどこまでもつづいていく。重複もある。「周り」と「あたり」、「甘くて濃い匂い」と「芳香」。しかし、これは一種の「ずれ」であり、この「ずれ」を存在させるというのが、河邉がここで書いていることなのだ。
「周り」と「あたり」、「甘くて濃い匂い」と「芳香」は、どう違うのか。そんなことは、問うてもはじまらない。「周り」と呼んでいたものが「あたり」になり、「甘くて濃い匂い」と呼んでいたものが「芳香」になる。その繰り返しのなかで「濁りをそなえた透明な黄色」というようなことばが生み出されてくる。「濁っている」のか「透明」なのか。どちらでもいい。矛盾しているけれど、その矛盾の中から、読者が気に入ったものを選べばいいのである。
河邉は「濁っている」とまず書いたが、すぐに「透明」と言い直しているのか、「透明」という発見が先にあったのだけれど「濁っている」という発見がそれを突き破って出てきたのか、それはもしかすると河邉にもわからないかもしれない。
切断と接続が、わからない。わからないけれど、矛盾したものが接続し、そこに存在している。それは、どこまでもつづいていく。
この矛盾の接続(接続してはいけないものが接続してしまうこと)は、書き出しの「の」の繰り返しからはじまっている。「の」によってことばが周辺へ自己拡張していく。その自己拡張のなかで、そこにあるものを何でも取り込んでしまう。その動きを「やめない」。持続する。そこから「リズム」が生まれてきている。
そこでは「時間」さえも「時間」ではなくなる。二行目の「きのうの庭」。なぜ、「きのう」なのか。なぜ、「きょう」(いま)ではないのか。「記憶」と「現実」が、過去、現在、未来という「時間」の区切りをなくし融合するまで、語りのリズムで支配してしまう。語りのリズムだけが、「いま」存在する。
蝋梅の壺に水仙をつけくわえると、こんなことが起きる。
匂いに誘われてわたくしというもののからだの部ぶんは
なくなってしまいもう何日も何ねんも水のなかで水仙の
青くて長いすい直の茎をかじったり目の前の水のうえに
浮かんでは下のほうに沈んでいくおもい蝋梅の花がらを
「部ぶん」「何ねん」「すい直」。これは「意味(概念)」なのか、単なる音なのか。「時間」がなくなれば、意味もなくなる、概念もなくなり、ただ「何かがある」というだけになる。「わたくしというもののからだ」か「蝋梅」か「水仙」か。その区別もなくなる。
ここには「区別をなくする」というリズムがあるのだ。
「存在の区別をなくすリズム」を何と呼ぶか。私はそれを「河邉のことばの肉体」と呼ぶ。つまり「思想」だ。「河邉のことばの肉体」というとき、そこには「河邉の肉体」と「ことばの肉体」が「の」によって切断不可能なものとして存在する。区別できない。
*
田中澄子「彼女は 彼に」はまったく違う文体で世界をとらえる。
縁側の陽だまりにつつまれて寝入った
板の隙間からチリチリと明かりがもれてくる
目覚めたのは見覚えのある建具工場だ
耳に鉛筆を挟んだ若い職人がいる
彼は小さな釘を口に含み 一本ずつ出しては トントントン
硝子窓の桟に打ち込んでいく
自己と他者が明確に分けられている。そして、その他者(対象)を正確にとらえながらことばは動いていく。だが、田中は、ほんとうに世界をとらえていたのか。
彼女は語りかけたかった あの日 言えなかった何かを
世界がちりばめている言葉の いちばんのひと言を
彼女は錆た釘や蝶番の散らばる床に 立ちつくす
道具棚の横に くたびれたブック靴が揃えてある
靴の上に塵が積もって 積もっていく
「積もって 積もっていく」。このことばの重複のなかにある、「ずれ」。それが、いつまでも田中の悲しみである。
しかし、「悲しみ」ではなく「愉悦」であると田中はいうかもしれない。河邉の「愉悦」が実は「悲しみ」かもしれない。たぶん、両方なのだ。そうでないと、ひとは生きていけない。
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