詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇84)Joaquin Llorens Santa, Título 99

2020-08-20 15:21:33 | estoy loco por espana


Estoy loco por espana(番外篇84)Joaquin Llorens Santa, Título 99


La escultura depende del a’ngulo de visio’n.
No solo la forma se ve diferente, sino que el espacio tambie’n se ve diferente.
Desde este a’ngulo, el espacio creado por las tres partes es claramente visible.
La parte ma’s a la derecha no tiene cubo.
Arriba, solo hay espacio.
Esta presencia enfatiza au’n ma’s la altura del cielo.


彫刻は見る角度によって違う。
形が違って見えるだけではなく、空間が違って見える。
この角度からでは、三つの部分がつくりだす空間がはっきり見える。
右端のパーツには立方体がない。
上に、ただ空間が拡がっている。
この存在によって、空の高さがいっそう強調されている。
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河邉由紀恵「蝋梅」、田中澄子「彼女は 彼に」

2020-08-20 14:57:58 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「蝋梅」、田中澄子「彼女は 彼に」(「どぅにかまら」28、2020年07月10日発行)

 ことばと対象との距離は、言い直せばリズムになると思う。対象に向き合うときの、その位置が、おのずとことばのリズムを決定する。そのリズムが一定であるとき、その作品を安心して読むことができる。
 ことばを読むのだから、「安心」が絶対というわけではない。むしろ、「不安」が重要というときもある。しかしその「不安」にも一定のリズムがないと、私は、そのことばについていけない。
 というようなことは、いくら書いても何も書いたことにならないなあ。

 河邉由紀恵「蝋梅」は、こうはじまる。

しらしらとつめたい冬の灯の真昼のおりの床の間の隅に
置いた黄土色の古い信楽の壺の中にきのうの庭に咲いた
蝋梅のながい枝を二本いれれば周りはたちまちその蝋梅
のむうとした甘くて濃い匂いに満ちてきてあたりはもう
息がつまるほどの芳香にあふれてわたくしは心がふれて
しまいそうに感じながらその蝋梅の花びらというものは
蝋細工のように濁りをそなえた透明な黄色であり花の色

 ことばが切れ目なくどこまでもつづいていく。重複もある。「周り」と「あたり」、「甘くて濃い匂い」と「芳香」。しかし、これは一種の「ずれ」であり、この「ずれ」を存在させるというのが、河邉がここで書いていることなのだ。
 「周り」と「あたり」、「甘くて濃い匂い」と「芳香」は、どう違うのか。そんなことは、問うてもはじまらない。「周り」と呼んでいたものが「あたり」になり、「甘くて濃い匂い」と呼んでいたものが「芳香」になる。その繰り返しのなかで「濁りをそなえた透明な黄色」というようなことばが生み出されてくる。「濁っている」のか「透明」なのか。どちらでもいい。矛盾しているけれど、その矛盾の中から、読者が気に入ったものを選べばいいのである。
 河邉は「濁っている」とまず書いたが、すぐに「透明」と言い直しているのか、「透明」という発見が先にあったのだけれど「濁っている」という発見がそれを突き破って出てきたのか、それはもしかすると河邉にもわからないかもしれない。
 切断と接続が、わからない。わからないけれど、矛盾したものが接続し、そこに存在している。それは、どこまでもつづいていく。
 この矛盾の接続(接続してはいけないものが接続してしまうこと)は、書き出しの「の」の繰り返しからはじまっている。「の」によってことばが周辺へ自己拡張していく。その自己拡張のなかで、そこにあるものを何でも取り込んでしまう。その動きを「やめない」。持続する。そこから「リズム」が生まれてきている。
 そこでは「時間」さえも「時間」ではなくなる。二行目の「きのうの庭」。なぜ、「きのう」なのか。なぜ、「きょう」(いま)ではないのか。「記憶」と「現実」が、過去、現在、未来という「時間」の区切りをなくし融合するまで、語りのリズムで支配してしまう。語りのリズムだけが、「いま」存在する。
 蝋梅の壺に水仙をつけくわえると、こんなことが起きる。

匂いに誘われてわたくしというもののからだの部ぶんは
なくなってしまいもう何日も何ねんも水のなかで水仙の
青くて長いすい直の茎をかじったり目の前の水のうえに
浮かんでは下のほうに沈んでいくおもい蝋梅の花がらを

 「部ぶん」「何ねん」「すい直」。これは「意味(概念)」なのか、単なる音なのか。「時間」がなくなれば、意味もなくなる、概念もなくなり、ただ「何かがある」というだけになる。「わたくしというもののからだ」か「蝋梅」か「水仙」か。その区別もなくなる。
 ここには「区別をなくする」というリズムがあるのだ。
 「存在の区別をなくすリズム」を何と呼ぶか。私はそれを「河邉のことばの肉体」と呼ぶ。つまり「思想」だ。「河邉のことばの肉体」というとき、そこには「河邉の肉体」と「ことばの肉体」が「の」によって切断不可能なものとして存在する。区別できない。



 田中澄子「彼女は 彼に」はまったく違う文体で世界をとらえる。

縁側の陽だまりにつつまれて寝入った
板の隙間からチリチリと明かりがもれてくる
目覚めたのは見覚えのある建具工場だ
耳に鉛筆を挟んだ若い職人がいる
彼は小さな釘を口に含み 一本ずつ出しては トントントン
硝子窓の桟に打ち込んでいく

 自己と他者が明確に分けられている。そして、その他者(対象)を正確にとらえながらことばは動いていく。だが、田中は、ほんとうに世界をとらえていたのか。

彼女は語りかけたかった あの日 言えなかった何かを
世界がちりばめている言葉の いちばんのひと言を
彼女は錆た釘や蝶番の散らばる床に 立ちつくす
道具棚の横に くたびれたブック靴が揃えてある
靴の上に塵が積もって 積もっていく

 「積もって 積もっていく」。このことばの重複のなかにある、「ずれ」。それが、いつまでも田中の悲しみである。
 しかし、「悲しみ」ではなく「愉悦」であると田中はいうかもしれない。河邉の「愉悦」が実は「悲しみ」かもしれない。たぶん、両方なのだ。そうでないと、ひとは生きていけない。

 



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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(93)

2020-08-20 11:44:57 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (歌の彼方の長廊下をいそぐ昔のぼくを)

なぜいまのぼくが声長く呼ぶのか
時のすぎさつているぼくがどう答えられるか

 「昔」と「いま」を「長い」ということばが結ぶ。「長廊下」「声長く」。「昔」と「いま」はしたがって「長く」隔たっている。「長い時間」が横たわっている。
 でも、そこには「廊下」があるのだ。はっきりした「つながり」がある。そして重要なのは「つながり」ではなく「はっきりした」という隠された意味だろう。
 「どう答えられるか」。疑問形で書かれているが、嵯峨は答えを知っている。だから、詩を書いている。「どう答えられるか」が、答え方なのだ。「どう」が答えなのだ。
 だから、こう繰り返す。

本当の姿を追う夢のさびしさを
どう説明したらいいのか




*

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