野沢啓「詩を書くという主体的選択--言語暗喩論」(「走都」第二次5号、2020年08月20日発行)
野沢啓「詩を書くという主体的選択--言語暗喩論」はたいへんむずかしい。私はろくに本を読まない。網膜剥離の手術をして以来、緑色は見えなくなるし、左右の視力が違いすぎるために頭痛はするしで、いっそう読まなくなっているので、テキトウなことしか書けないが、テキトウであっても書きたいことがあるのである。
と、断わった上で。
私が共感して読んだのは(誤読して、共感しているだけなのかもしれないが)、12ページの下段の次の部分である。(引用するとき、いつも誤って引用するので、私の引用はあてにせず、原典で確認してください。番号は私がつけた。私は都合で改行しているが、野沢の文章は改行がない。)
①詩のことばは新しい接続と切断をくりかえすその局面の先端において、②そのつどなんらかの認識を獲得しながら、③その認識力の導きのもとにさらに先に進もうとする。
④すでにこのときには詩の書き手はみずからがいったいどこへ向かおうとしているのかもわからないし、⑤みずからがもはや主体であるなどという確信さえもつことはできない。
「詩のことば」と野沢が書いているものを「暗喩」と私は読み替える。そうすると、
①「暗喩」は、「暗喩」によって、「接続」と「切断」をくりかえす、ということになる。だれもが知っている「暗喩」を例に考えてみる。美女を「薔薇」と呼ぶ。このとき「薔薇」ということばは人間と結びつきながら(接続詞ながら)、「人間」を切り離している(切断している)。そして、そのとき、
②「人間を超える美」というもの、つまりそのあたりにいる女性とは格段に違ういう認識、瞬間的確立され(そういう認識を獲得し)、その「認識」をもとに、さらに「美」が定義されていく。その結果、
③たとえば「薔薇」の花びらの複雑に絡み合いながらつくりだす「見かけ(視覚的美)」からさらに進んで、触覚の美(手に触れると、花びらがやわらかい)、嗅覚の美(においをかぐと気持ちがよくなる)へと「美」の領域を拡大しながら、美女そのものの存在のあり方を拡大していく。その拡大の仕方は、
④いまならば、「陶酔させる力(美)」むすびつけ、セックスにまで世界を広げていくこともできる。どこまで拡大できるか、つまりどこまで「美」の領域を「暗喩」が射程として抱えているのか、書き手はわからない。最初は「形の美しさ」について書こうとして「薔薇」という「暗喩」をつかったのだが、その「暗喩」の意味(?)が「人間の美を超える」という意味を含んだとたんに「薔薇」ということばそのものが「みずから」暴走する。そうなってしまうと、
⑤「暗喩」をつかいはじめたのは「書き手」であるけれど、もう「ことば」の運動を支配できているかどうかわからない。「ことば」は「書き手」の思惑を超えて、想像もしていなかった「領域」を、「みずから」書く度に広げてしまうのである。
このあと、野沢は、さらにつづけている。
⑥ただただ、ことばがそのつど切り開く局面のなかでことばのリズムやイメージといった生理にもとづき、或る種の認識に促されて、先へ進もうとするしかない。
⑦その過程のどこかで大きく局面が変わるとき、それはさらなる展開となるのか、そこがいちおうの到達点として収束することになるのかは、書き手の構想力の臨界となるのではないか。
この⑥⑦は、私の見るところ①から⑤までの言い直しである。「生理」と野沢が呼んでいるものは、私がとりあえず「暴走」と書いてきたものである。「生理」の前に「みずから(の)」ということばを補って、私は読むのである。「ことば(暗喩)みずからの生理」と読むのである。「暗喩(ことば)」自身がもっている力。(私は、これを「ことばの肉体」と呼んでいるのだが、ここでは深入りしない。)とりあえず、「認識」というような精神とは別の力を、野沢が「生理」という表現(暗喩)で提示していることだけを指摘しておく。
「生理」も一種の定義であるかぎり、「認識」のひとつであるが、「認識」のように「理性」でととのえることができるものではない。心臓の動きや射精、生理(月経)を認識(頭)で支配できないように、「ことば」にも何か「理性(頭)」では制御できないものがあるのである。
「認識(精神)」の制御(形をととのえようとする方向性)を「構想力」と言い直せば、その「認識(精神力)」は、ことば(暗喩)の「生理」と衝突しながら、あるいはそれに絡み合いながら、どこかで動けなくなる。つまりひとつの「到達点」へと収束する。(結論になる)
で。
そう「誤読」(私の勝手な解釈)し、そのとおりだと思うと共感したうえで言うのだが。
私は野沢の、さまざまな文献の引用に疑問を持っている。野沢は「詩のことば」と限定して書いているが、あらゆることばはある瞬間に「暗喩」として働く。「暗喩」と同じように働く。つまり、どんなことばの運動も接続と切断である。「暗喩」だけが、接続と切断の働きをするのではない。
そして、「接続/切断」は、「暗喩」の場合と同じように「そのつど」(②にでてくることば)のものである。この「そのつど」は、私の読み方では、文字通り「そのつど」、つまり一回かぎりである。言い直すと、そのときつかわれている「暗喩」、そのときのことばの運動にのみ適用できることである。
だからそれは、時枝誠記なら時枝のことばについてのみ言えることで、そこで起きたことを入沢康夫へ結びつけたり、カントに結びつけたり、デリダに結びつけたり、アリストテレスに結びつけることは、「そのつど」を無視することになると思う。
あらゆることばには、「そのつど」があり、その「そのつど」は、そのことばを発した瞬間の「みずからの生理」と切り離せない。複数の「精神」を連結するとき、「精神」というものは抽象的だから、あまり衝突が感じられないかもしれないが、「生理」がはいりこむと、簡単にはいかない。「生理」を「肉体」と考えれば、わかりやすくなる。
「頭のことば(精神)」は時枝だろうが、カントだろうが、デリダだろうが、ことばとして結びつけても、「当人」以外は「違和感」を持ちにくい。ところが「肉体」だと違うのだ。時枝とカントが「接続」していたと思ったら、いつのまにかデリダと時枝が「接続」し、「切断」されたカントはアリストテレスと「接続」しながら、デリダになにごとかを誘いかけているというのでは、「乱交」である。
もちろん「乱交」は乱交で、思いもかけない愉悦をもたらすのかもしれないけれど、私は恥ずかしがり屋なのか、嫉妬深いのか、それとも肉体的コンプレックスにとらわれているか、ちょっと違うなあと感じる。
私は正直に言うと浮気性だから、カントがあきたからデリダ、デリダがあきたから入沢、というようなことはしてしまうが、同時に何人もの「ことば」と入り乱れるというのは、よくわからないのである。私はどんなときでも「一対一」の関係で、ことばを動かしたい。そのつど、向き合っているその「ひとり」と交わり、どこまでもことばの欲望のなかにおぼれてゆきたい。そこで自分を見失ってしまいたい。
たとえば私が野沢の詩、文章を読むときは、よほどのことがないかぎり、野沢のことばだけを引用する。そうしないと、野沢がわからなくなるというよりも、「私」がわからなくなる。いま感じている興奮は、「私みずからの生理(肉体)」が引き起こしているのか、だれか高名な哲学者、詩人のことばが「私の頭」をかき回しているのかわからなくなる。自分の書いていることが信じられなくなる。
野沢は何人のことばを引用しようが、野沢自身を見失うことない、ということなのかもしれないが、そういう部分は、私は「生理的」についていけない。私は「教養(知識)」ではなく、「生理(肉体が覚えていること)」にしたがってしか動けない。「肉体がおぼえている」ことにしたがって、その場その場、そのときそのときでしか動けない。きょうはこう書いているが、あしたはあしたで「生理」が違うので、また違うことを書くしかないのである。
今回の文章で、野沢は野沢の詩を引用しながら語っている部分があるが、そこには野沢の「生理」がしっかりと動いている。野沢の「生理」が「つづいている」。私は、そういう文章が好きだ。野沢に言わせれば、野沢の詩の解説にも、複数の人間が出てくるということになるかもしれないが、出方が違うでしょ? 土地と「通俗的」人間関係がからみついているでしょ? この絡みつきが「生理」だと、私は思っている。「生理」が動いていると、私はついていける。まあ、私が「通俗的人間」である、ということだけなのかもしれないが。
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