詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

破棄された詩のための注釈08

2020-08-06 21:03:01 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈08
                         谷内修三2020年08月06日

 スターバックの交差点。人込みから押されるようにあらわれた男の前をバスが右折するとき、「私はまだ私を取り除いていない」ということばがあらわれた。しかし、バスが曲がり切ってしまうと、「私はまだ私を取り除いていない」ということばは、男のように消えてしまっていた。
 「きょうへつづいている昨日へか、きょうからつづいている明日へか」ということばのかわりに、野菜チェーン店に並ぶアスパラガスの色を書いた。降りこんだ雨に濡れている新聞紙のくらい灰色に似合う、その色を。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(87)

2020-08-06 14:44:12 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (時間の荒野というものだろうか)

ぼくに関りのあるものは何一つない存在のぜんたいの動きだ

 そこには「ぜんたい」がある。だから、「ぼく」には「関りのあるものは何一つない」というのだ。もし「ぜんたい」ではなく何かが動いているのなら、「ぼく」はそれについて「関り」をもつことができる。

 そんなことは書いていない、かもしれない。

 しかし、「ぜんたい」ということばが「完璧」な何か、完成されたものを感じさせるので、考えてしまうのだ。「完璧な存在」は、いつも「ぼく」を拒んでいる、と。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020年08月06日(木曜日)

2020-08-06 14:14:44 | 考える日記
 「常識がない(知識がない)」という批判は、意味がない。だれもが自分を基準にして世界をみているだけだからである。
 考えるか、考えないかが問題である。
 正しいか、間違っているかも問題ではない。
 考えなくても「正しい」ことを言うことができる。借りてくればいい。でも、それはそのひとが考えたことではない。

 借りてきたことばを話しているひとと対話するとき、いったい、私はだれと話しているのだろうか。目の前のひとが。それとも、その背後にいる「正しいことば」を語る別のひとだろうか。
 どんなに「正しい」ことでも、伝達の途中で変わってしまうことがある。「間違い」になってしまうことがある。もしかすると、そういう「間違い」を語る人の方が、考えているかもしれない。考えたから、他人のことばをそのままそっくり語ることができないのだ。自分の考えがまぎれこむから「間違い」が生まれる。「正しい」と違ったものになってしまう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする