詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年08月18日(火曜日)

2020-08-18 10:35:53 | 考える日記
 詩集、小説の「批評」を読んでいると、ときどき西洋の現代思想家のことばが引用されているのに出会う。
 その思想家が、批評の対象になっている日本の現代詩、小説について語っているのか。その具体的な作品ではないにしても、最低限、日本の詩や小説、つまり「ことば」について何か語っているのか。そうであるなら西洋の現代思想を引用する意味もあるだろうが、彼らが日本のことばについて何も語っていないなら、そういうひとのことばを引用しても意味があるとは思えない。
 その批評家は、最新の現代思想家になったのつもりなのか。
 しかし、その最新の現代思想家の思想、つまりことばが気になるなら、私はその思想家の書いたことばを読むだろう。それが翻訳であっても。
 でも、批評家が書きたいのは、何? 日本の現代詩、小説への批評? それなら自分のことばだけで書けばいい。西洋思想家のことばを経由しなくてもいい。他人のことば経由の批評を読ませられたのでは、それはだれのことばなのか、わからない。西洋の現代思想家が、日本の現代詩、小説について、ほんとうにそんなことを言うと思う?

 引用している西洋現代思想家について「批評」すれば、彼らを研究している日本の思想家からいろいろな指摘がくると恐れているのかも。日本の現代思想家が反論してこないところで、「私は、この思想家のことを知っています」と言っているだけのように思える。
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鈴木ユリイカ『サイードから風が吹いてくると』(2)

2020-08-18 10:02:02 | 詩集


鈴木ユリイカ『サイードから風が吹いてくると』(2)(書肆侃侃房、2020年08月06日発行)

 詩集のタイトルになっている「サイードから風が吹いてくると」。「サイード」とはどこか。あるいは、何か。

サイードから風が吹いてくると
わたしの友達はぎっくり腰になった
のではなかった でも
わたしの住んでいる街はすぐ夕暮れになった
街路樹はぼおっと揺れて灯がともった

 何もわからない。街路樹が灯のように明るくなる。夕暮れのなかで、逆に輝く。そんな不思議な光景、見たことはないが、ありうるかもしれない光景を思う。
 詩は、こうつづいていく。

なぜその地下の巨きな古本屋でひとりの
孤独な少年の写真がついた本を買ったのだろう
その日サイードは亡くなってしまった
衛星放送の予告編でパレスチナの男たちの間を歩く
大きな白髭の男を見た その男から吹いてくる風が
あるだろうか?

 私は、この部分を混乱しながら読む。
 書かれていることとは違うことを想像しながら読んでしまう。孤独な少年が本を買った。少年は買った本を抱え、男たちの間を歩く。そうしているうちに、少年は白髭の男になっている。その男を、鈴木が見ている。少年が白髭の男になった。その変化のなかから風が吹いてくる。少年の変化に、新しい風を感じる。
 そう感じるととき、鈴木は鈴木ではなく、少年であり、少年であると同時に白髭の男サイードである。

サイードから風が吹いてくると
わたしはひとりで秋の深まりのなかに入っていった
わたしはもう父もなく母もなく 故郷もなく
家もなくただ静かに年をとっているらしかった
けれども 年をとるのも悪くはなかった
ただ これほどひとりでこれほど何ももたず
これほど成し遂げることもなく ただただ
熱くなったり冷たくなったりする本を抱いて
葡萄をひとつぶ食べながら
これまでのように生きていっていいのだろうか?

 サイードの生き方が少年の理想であり、それを追いかけて少年はサイードになるのだが、その様子を見ていると、鈴木もおのずとサイードになって、自分を振り返ったりする。現実とことばが交錯し、いまある現実が別の現実に生まれ変わる。ことばによって、新しく生まれ変わる。
 だからこそ「これまでのように生きていっていいのだろうか?」という疑問が生まれるのだが、この疑問は「ほんもののサイード」の疑問にも思える。サイードは、「これまでのように生きていっていいのだろうか?」と思いながら生きてきたのではないのか、と。
 それも、新しく生まれてきた現実、ことばによって生まれなおしたサイードである、と鈴木は考えるだろう。
 区別は必要ない。誰かに共感するとき、それは誰かであり、同時に私である。そのひとが生きていないなら、「わたし」がそのひとになっていまを生き、現実をことばにするということだろう。共感とは、そういうものだと思う。

サイードから風が吹いてくると
皆が知っているわたしの他に もうひとりのわたしが
複雑な顔をして不器用に立ち現れてくるらしかった
その複雑な人物がさ迷い歩きぶつぶつ言っているらしかった

 これは、サイードと鈴木が「一体」になった自画像である。その姿を見て、皆が「ほらサイードから風が吹いてきた」と言っているのだ。
 「サイードから風が吹いてくると」は、言い直すと「わたし(鈴木)からサイードの風が吹き出すと」なのである。「一体」であるけれど、いまのわたしはわたしではなく、サイードであるという思いがあるから「風が吹いてくると」と言ってしまうのだ。
 それになによりも……。

サイードから風が吹いてくると
わたしは空しい問いを発する なぜとか
知らなかったとか

 サイードに知っていることがあり、わたしに知らなかったことがある。サイードに知っていることがあり、わたしには「なぜ」という問いでしかないものがある。
 その違いがあるからこそ、わたし(鈴木)はサイードにならなければならないと思う。だからこそ、繰り返し繰り返し、

サイードから風が吹いてくると

 ということばから出発しなおす。そのとき、はっきりわかるのだ。サイードが出発したとき、自分自身のことばと現実を向き合わせ、ことばも現実も生まれ変わらせたたとき、そのときサイードはサイードになったのだ。それまでは、サイードも「なぜとか/知らなかったとか」、「空しい問いを発する」しかなかったのだ。サイードが生まれ変わったように、わたし(鈴木)も生まれ変わる。そのときの「指針」のようなものとしてサイードがいる。

秋の美しい日に サイードから吹いてくる風に吹かれながら
わたしは落ち葉を踏みしめながらさ迷い
まだごつごつした青くさい
正直で見知らぬわたしに出会った

 詩の最後は、そう締めくくられる。「まだごつごつした青くさい/正直で見知らぬわたし」は、私が引用しなかった部分に書かれている。それを読むことは、きっと、読者が少年になり、サイードになり、鈴木になることだ。鈴木は「鈴木になり、少年になり、サイードになることだ」と言い直すだろうけれど。
 まあ、同じことだから、私は「サイードになる」と言っておきたい。



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7時間半は、なぜ消えたか

2020-08-18 08:31:27 | 自民党憲法改正草案を読む
7時間半は、なぜ消えたか
   自民党憲法改正草案を読む/番外378(情報の読み方)

 2020年08月18日の読売新聞(西部版・14版)が、安倍の「日帰り検診」を、こう伝えている。(4面)

首相日帰り検診/体調懸念の声も/政府・与党内「顔色悪い」

 この見出しを読んで、私は驚いた。きのうネット(読売オンライン、2020/08/17 22:19、https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200817-OYT1T50144/?fbclid=IwAR2qCKzACxT36V1o1AkFEsJbxZvpU7zJ2r4mnFU3wXv77nCZRBavemVAZJQ)で読んだ見出しとは違う。ネットでは、こう書いてあった。

首相「追加検査」、病院で7時間半過ごす…記者団に一言「お疲れさま」

 見出しがぜんぜん違う。「病院で7時間半過ごす」が消えている。
 見出しは、紙面の都合で大きさが変わったりするが、ただそれだけの理由で見出しを変えたのか。私は疑問を持っている。
 記事を読むと、ネットにはあって、新聞にはない部分がある。

首相は第2次内閣発足以降、半年に1回、人間ドックを受診してきた。病院関係者によれば、この日の来院は6月13日に受けたドックの「追加の検査」が目的だという。

 これは、とても変である。考えるに、ネット配信のあと、紙面では記事を削除したのだろう。私が読んでいるのは14版(最終版)である。地方に配達される新聞では、「人間ドック」のことが書かれたままかもしれない。
 私は、ここから考える。
 なぜ「6月13日の人間ドック」を削除したのか。「追加検査」を削除したのか。

 「追加検査」というのは、そもそも「7時間半」もかかるものなのか。「7時間半」は「検査」だけにかかった時間なのか。それとも「結果」が出るまで待っていたために7時間半かかったのか。安倍の検査だから、一般人の検査と違って、「時間待ち」ということもないだろう。優先して検査されるだろう。
 私は人間ドックで膵臓にポリープがあると診断され、別の大学病院で再検査を受けたことがある。そのときは学生が機器をとりあつかい、「先生、ポリープが見つかりません」「位置が違うだろう」というようなやりとりがあって、ポリープ発見までに30分以上かかるという「笑い話」のようなことを体験したが、安倍を「検診」するのはまさか学生ではないだろう。専門の「教授クラス」が検診するだろう。それでも7時間半もかかる検診とは何なのか。
 検診が必要だったのは1か所だったのか、複数だったのか。
 「7時間半」が見出しにあると、当然、そういう疑問がわいてくる。
 さらに、「検査する」という報道がされ、「検査が終わった」と報道するのなら、そこには当然のこととして「結果」の報道も含まれていいはずだ。
 病気は個人のプライバシーだから「公表(報道)」できない、ということかもしれないが、「健康」な場合は、「健康に問題がないことが確認された」と報道(公表)するだろう。「体調が悪いと感じていたが、検査結果は何も問題がなかった」と言うだろう。
 「体調が悪い」場合でも、ときには側近が「何も問題はなかったと聞いている」と答えるのが政治家の「健康管理」かもしれない。

 そういうことは一切書かず、読売新聞は、記事をこう締めくくっている。

先週末に首相と面会した麻生副総理兼財務相は17日、財務省で記者団に「休まず連続で働いたら、普通だったらおかしくなるんじゃないの」と述べた。

 通常国会期間中、安倍に「休み」がなかったということを問題にしているが、コロナ問題のさなか、家で犬と遊び、テレビ(?)のリモコンを操作している「休日」の映像も「激務」ということか。たしかにカメラが近くにあれば、そしてその映像が公開されるのであれば「仕事」と呼べるかもしれないが、私には「休日」にしか見えない。
 さらに国会閉会後は、野党の臨時国会開会の要求に答えないし、閉会中審議にも出席しない。拡大するコロナ問題に対しても、何ら対策を発表しない。6月21日以降、安倍が姿を見せたのは広島、長崎の原爆の日の式典、戦没者追悼式の式典だけだろう。そのさいの記者会見も、あらかじめ用意された「質疑」を「朗読」するだけでおしまいにしている。「休まずに連続で働いた」とはとても言えない。

 問題は。
 なぜ、読売新聞は、麻生の談話を取材しているだけで満足しているのか。麻生の談話を公表することで、「安倍は休まずに働いている」ということを強調しようとするのか、である。
 7時間半の検診よりも、安倍の長時間労働を問題にするのはなぜだろう。7時間半もかかる検診の重要性を隠すためだろう。
 いま、国民が知りたいのは、安倍が何日休まずに働いたかではない。「病気」がどうなっているか、である。「人間ドック」を受け、その「追加検査」を受けたのなら、いちばんの注目は「病気」である。
 検診に7時間半も時間がかかり、しかもその結果を「公表」できない。ここに、問題が集約している。
 他人の病気は簡単には把握できない。プライバシーの問題もある。しかし、安倍は「私人」ではない。安倍の健康は「公共」の問題である。
 それが「うそ」であってもいいから、ジャーナリズムであるかぎりは、「健康に問題はありません。長い間休んでいないので疲労がたまっているだけです」くらいの談話を、安倍の側近から引き出すべきなのである。
 2020年08月11日の読売新聞(西部版・14版)では、

首相 正月以来のジム

 という見出しで、安倍があたかも「リラックス」して体調維持につとめているというような記事を書いている。
 この記事に対して、私は「病気隠し」ではないのかという疑問を書いた。(https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/254fde6bb915a9508d12ab209e7709a6)
 安倍のジム通いについては、運動しているのではなくジムに通っていることを装って、個室で治療・診察を受けているという「噂」が流れている。

 こういうときこそ、ジャーナリズムは情報を「取材」しないといけない。取材しなくても、情報をリークしてくれる人間がいるとしても(たとえば麻生の談話)、それをそのまま「談話が取材できた」と喜んで紙面化してはいけない。その「うそ」は「健康に問題はありません」とうそよりタチが悪い。安倍への「同情」を誘うものだからである。
 「ジム」報道のときは、「首相は趣味のゴルフにも1月4日以来、行っていない。」が記事の締めくくりだった。

 ほんとうに安倍の「健康」が心配なら、きちんと取材して、「事実」を書くべきだ。麻生の「安倍がカワイソウ」とという談話など必要ない。





*

「情報の読み方」は9月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 



*

「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

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