鈴木ユリイカ『サイードから風が吹いてくると』(2)(書肆侃侃房、2020年08月06日発行)
詩集のタイトルになっている「サイードから風が吹いてくると」。「サイード」とはどこか。あるいは、何か。
サイードから風が吹いてくると
わたしの友達はぎっくり腰になった
のではなかった でも
わたしの住んでいる街はすぐ夕暮れになった
街路樹はぼおっと揺れて灯がともった
何もわからない。街路樹が灯のように明るくなる。夕暮れのなかで、逆に輝く。そんな不思議な光景、見たことはないが、ありうるかもしれない光景を思う。
詩は、こうつづいていく。
なぜその地下の巨きな古本屋でひとりの
孤独な少年の写真がついた本を買ったのだろう
その日サイードは亡くなってしまった
衛星放送の予告編でパレスチナの男たちの間を歩く
大きな白髭の男を見た その男から吹いてくる風が
あるだろうか?
私は、この部分を混乱しながら読む。
書かれていることとは違うことを想像しながら読んでしまう。孤独な少年が本を買った。少年は買った本を抱え、男たちの間を歩く。そうしているうちに、少年は白髭の男になっている。その男を、鈴木が見ている。少年が白髭の男になった。その変化のなかから風が吹いてくる。少年の変化に、新しい風を感じる。
そう感じるととき、鈴木は鈴木ではなく、少年であり、少年であると同時に白髭の男サイードである。
サイードから風が吹いてくると
わたしはひとりで秋の深まりのなかに入っていった
わたしはもう父もなく母もなく 故郷もなく
家もなくただ静かに年をとっているらしかった
けれども 年をとるのも悪くはなかった
ただ これほどひとりでこれほど何ももたず
これほど成し遂げることもなく ただただ
熱くなったり冷たくなったりする本を抱いて
葡萄をひとつぶ食べながら
これまでのように生きていっていいのだろうか?
サイードの生き方が少年の理想であり、それを追いかけて少年はサイードになるのだが、その様子を見ていると、鈴木もおのずとサイードになって、自分を振り返ったりする。現実とことばが交錯し、いまある現実が別の現実に生まれ変わる。ことばによって、新しく生まれ変わる。
だからこそ「これまでのように生きていっていいのだろうか?」という疑問が生まれるのだが、この疑問は「ほんもののサイード」の疑問にも思える。サイードは、「これまでのように生きていっていいのだろうか?」と思いながら生きてきたのではないのか、と。
それも、新しく生まれてきた現実、ことばによって生まれなおしたサイードである、と鈴木は考えるだろう。
区別は必要ない。誰かに共感するとき、それは誰かであり、同時に私である。そのひとが生きていないなら、「わたし」がそのひとになっていまを生き、現実をことばにするということだろう。共感とは、そういうものだと思う。
サイードから風が吹いてくると
皆が知っているわたしの他に もうひとりのわたしが
複雑な顔をして不器用に立ち現れてくるらしかった
その複雑な人物がさ迷い歩きぶつぶつ言っているらしかった
これは、サイードと鈴木が「一体」になった自画像である。その姿を見て、皆が「ほらサイードから風が吹いてきた」と言っているのだ。
「サイードから風が吹いてくると」は、言い直すと「わたし(鈴木)からサイードの風が吹き出すと」なのである。「一体」であるけれど、いまのわたしはわたしではなく、サイードであるという思いがあるから「風が吹いてくると」と言ってしまうのだ。
それになによりも……。
サイードから風が吹いてくると
わたしは空しい問いを発する なぜとか
知らなかったとか
サイードに知っていることがあり、わたしに知らなかったことがある。サイードに知っていることがあり、わたしには「なぜ」という問いでしかないものがある。
その違いがあるからこそ、わたし(鈴木)はサイードにならなければならないと思う。だからこそ、繰り返し繰り返し、
サイードから風が吹いてくると
ということばから出発しなおす。そのとき、はっきりわかるのだ。サイードが出発したとき、自分自身のことばと現実を向き合わせ、ことばも現実も生まれ変わらせたたとき、そのときサイードはサイードになったのだ。それまでは、サイードも「なぜとか/知らなかったとか」、「空しい問いを発する」しかなかったのだ。サイードが生まれ変わったように、わたし(鈴木)も生まれ変わる。そのときの「指針」のようなものとしてサイードがいる。
秋の美しい日に サイードから吹いてくる風に吹かれながら
わたしは落ち葉を踏みしめながらさ迷い
まだごつごつした青くさい
正直で見知らぬわたしに出会った
詩の最後は、そう締めくくられる。「まだごつごつした青くさい/正直で見知らぬわたし」は、私が引用しなかった部分に書かれている。それを読むことは、きっと、読者が少年になり、サイードになり、鈴木になることだ。鈴木は「鈴木になり、少年になり、サイードになることだ」と言い直すだろうけれど。
まあ、同じことだから、私は「サイードになる」と言っておきたい。
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