詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

代表撮影

2020-08-10 21:16:52 | 自民党憲法改正草案を読む


代表撮影
   自民党憲法改正草案を読む/番外374 (情報の読み方)

 2020年08月10日の読売新聞(西部版・14版)の2面。奇妙な写真を見た。長崎の原爆の日の式典に出席したあとの安倍の写真である。記者会見をしている。見出しは、

緊急事態首相「再宣言」に慎重

何も語っていない。
 その記者会見の写真が「代表撮影」なのである。
 記者会見で「代表撮影」?
 もし撮影される人が、皇室関係者、あるいは国賓として来日している重要人物ならわからないでもないが(記者が押しかけ、混乱しては困る)、なぜ安倍の記者会見で代表撮影なのか。時間に制限があり、混雑すると移動が困難になるというのか。
 どうも、おかしい。
 一説に、安倍の健康不安がささやかれている。吐血した、という噂だ。
 そこから推測するに。
 この代表撮影は、安倍サイドが「写真写り」をチェックするためのものなのだろう。健康不安をうかがわせるものは排除し、問題のないものだけを配信させる、ということではないのか。

 問題は。

 たとえ安倍サイドが、写真撮影は一社に限定したい(代表撮影で行ってもらいたい)と行ってきたのだとしても、それを取材側が受け入れていいのかどうかである。やりとりの詳細がわからないが、これはとてもおかしい。
 広島原爆の日の「記者会見」が4問で打ち切り、5問目を質問しようとした朝日記者が腕をつかまれ、制止されたということが話題になっている。長崎の記者会見は2問限定。記者会見自体が、非常に不自然なのだ。
 しかも、安倍が「質問/答え」を記入した紙を持っている姿がテレビでは報道されている。ネットでも出回っている。
 安倍は、よほど体調が悪いのだ。「原稿」なしでは、考えることもできないくらいに「不安」を抱えているのだ。それを隠そうとしている。
 安倍サイドが隠そうとするのは仕方がない。
 しかし、こういうときこそ、記者は「真実」を報道する必要がある。「質問制限」をそのまま受け入れたり、「代表撮影」を受け入れるべきではない。受け入れるのなら受け入れるで、なぜ「代表撮影」なのか、それがわかるように読者に説明すべきだろう。
 これでは、新聞社が安倍の「嘘」に加担することになる。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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破棄された詩のための注釈10

2020-08-10 11:33:06 | 破棄された詩のための注釈
破棄された詩のための注釈10
             谷内修三2020年08月10日

 ある現実と、その現実とは無関係な論理が出会うと、ことばが不規則な幻想を生み出す。このことばの運動が「批評」と呼ばれる。「現代詩」の世界では。
 例1 腋の下の窪みと鎖骨の窪みはどこでつながっているか。全身を黒い布で覆うムスリムの欲望でつながっている。
 例2
 例3

 書かれたあとで、傍線で消されたのは、「例1」ではなく、その前の「注釈」である。「例2」「例3」は空白のまま、やはり傍線で消された。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(88)

2020-08-10 10:20:11 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

遺稿ノート Ⅱ

* (僕が波打ち際を遠く歩いてきてつかれたならば)

砂浜に坐つて
ぼくはなにを思うだろうか

 行動を思い描くだけではなく、何を思うかを思い描く。思いが二重化する。あるいは、「言語化」する。
 嵯峨は「行動」を求めているのではなく、「ことば」を求めている。
 行動したあと、その行動を確認するためにことばが動くのではなく、ことばを動かすために行動する。



*

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須田覚『西ベンガルの月』

2020-08-10 09:14:46 | 詩集


須田覚『西ベンガルの月』(書肆侃侃房、2020年07月10日発行)

 須田覚『西ベンガルの月』は歌集。

花を持ち祈りの作法聞くうちに眉間に赤い印塗られる

足の裏なにかぬるつく雨上がり素足で歩くカーリー寺院

血しぶきを隠す花びら山羊の首毎日落とす寺院のなかで

 私の耳には、この音はなんとも奇妙に響く。どこがどうと具体的に言うことはむずかしいのだが、口語と文語がいりまじっている感じがする。いつも話していることばと本で読んで知っていることばがいりまじっていると言い直せばいいのかもしれない。
 ひとはだれでもいつもつかっていることばだけで言いたいことが言えるわけではない。どうしてもどこかから借りてきてつかうしかないことばもある。
 それはそれでいいのだが、そのことを須田は自覚しているか。
 たぶん、していない、だろう。

 そして、ここからなのだが。
 私は、こういう「借りてきたことば」がある作品というのは、なんだかぞっとしてしまい、いやだなあと思う。いつもは、そう思う。しかし、須田の短歌の場合、この整えられていない響き、リズムが妙に「真実味」を感じさせるのである。
 なぜだろう。

牛の目は我を見ていたそしてまた道に倒れたブッダのことも

 「牛の目は我を見ていた」は同時に、「我を見ている牛の目を我は見た」ということである。明確にはことばにされていないのだが、「私は見た」が隠されてる。もっと言えば、「私/我」が、須田の短歌にはことばにならないまま、たしかに存在する。
 言い直すと、須田は「体験」を書いている。
 体験を書いているということだけなら、歌人のすべては体験を書いていると主張するかもしれないけれど、私はそうは考えていない。「頭」で書いている短歌がたくさんあると思う。
 須田も「頭」で書く部分があるかもしれない。それが「借りてきたことば(本で読んだことば)」なのだが、その「本で読んだことば」さえ、「体験」として噴出してきている。
 つまり、須田がインドへ行って、そこでいままで知らなかったインドの「現実」を体験する。その「知らなかったこと」をことばにするのはなかなかむずかしくて、どうしても知っていることばに頼らざるを得ない部分がある。そういう必然に迫られて「本で読んだことば」をつかっている。「本で読んだ」が「体験」となって噴出してきているのだ。
 たとえば「道に倒れたブッダ」というのは、須田が目撃したことではない。だれかが本に書いていた。本で読まなかったかもしれないが、須田は、そういう「話」を聞いたことがあるのだろう。直接体験ではなく、間接体験。そして「間接体験」のなかにある、「共有された事実」としてのことば。それに頼って、自分の体験をととのえているのだ。ことばにしているのだ。

スジャータの素朴なだけの乳粥は冷めゆくほどに甘みを増した

 「素朴なだけ」は素材が少ないということだろう。そういうことは実際に飲んでみれば(食べてみれば)わかることかもしれないが、やはり「他者から与えられた現実/知識(ことば)」と言えるだろう。そういうものと「甘みを増した」という須田の肉体でしか感じられないものが一緒に書かれている。「我」が「肉体」として書かれてる。

曇天は忽然として晴れわたるブッダの座る菩提樹の上

 この歌では「ブッダの座る菩提樹の上」が「本で読んだことば」といえるかもしれないが、私はなぜか、それは「本で読んだことばではないなあ」と感じた。むしろ、「曇天」「忽然」「晴れたる」に「本で読んだことば」を感じた。曇っている空が突然晴れる。その「時系列」のととのえ方。「忽然」ということばで「時系列」だけではなく「時間」の長さそのものをあらわす方法。それは「本の中(ことばの伝統の中)」で築き上げられてきたものだ。
 その「忽然」を体験したとき、そこにたまたま「菩提樹」があったのだろう。「忽然」と「菩提樹」が抜き差しならないものとして、ここで出会っている。「ブッダの座る」はその「出会い」の衝撃を緩和するための「知恵」のように感じられる。

 こんなふうに書いてしまうと、こんな指摘では、どれが「いつも話していることば」で、どれが「本で読んだことば」かわからない。何も指摘したことにならないといわれそうだが。

 そこなんだよなあ、と私は思うのだ。
 はっきり区別ができない。区別しても、それでどうなるものでもない。そういうものが、ここにある。
 そして、それは実際に須田がインドでこの歌集に編まれている歌を読んだということがあるからなのだ。どの歌もインドでつくっている。その「正直」が、「いつも話していることば」と「本で読んだことば」という形でぶつかっている。
 こういうことを書くと、ちょっと申し訳ないのだが、この歌はすばらしい、感激したということはないのだが、どの歌もみんな「正直」に、「ほんとう」を書いている。それが伝わってくる。この「ほんとう」は、現代の短歌では、非常に珍しい。「ほんとう」というのは、こんなふうに、ちょっと救いようないというか、どうすればいいかわからない何かとしてとどまるものなんだろうなあ。







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