須田覚『西ベンガルの月』(書肆侃侃房、2020年07月10日発行)
須田覚『西ベンガルの月』は歌集。
花を持ち祈りの作法聞くうちに眉間に赤い印塗られる
足の裏なにかぬるつく雨上がり素足で歩くカーリー寺院
血しぶきを隠す花びら山羊の首毎日落とす寺院のなかで
私の耳には、この音はなんとも奇妙に響く。どこがどうと具体的に言うことはむずかしいのだが、口語と文語がいりまじっている感じがする。いつも話していることばと本で読んで知っていることばがいりまじっていると言い直せばいいのかもしれない。
ひとはだれでもいつもつかっていることばだけで言いたいことが言えるわけではない。どうしてもどこかから借りてきてつかうしかないことばもある。
それはそれでいいのだが、そのことを須田は自覚しているか。
たぶん、していない、だろう。
そして、ここからなのだが。
私は、こういう「借りてきたことば」がある作品というのは、なんだかぞっとしてしまい、いやだなあと思う。いつもは、そう思う。しかし、須田の短歌の場合、この整えられていない響き、リズムが妙に「真実味」を感じさせるのである。
なぜだろう。
牛の目は我を見ていたそしてまた道に倒れたブッダのことも
「牛の目は我を見ていた」は同時に、「我を見ている牛の目を我は見た」ということである。明確にはことばにされていないのだが、「私は見た」が隠されてる。もっと言えば、「私/我」が、須田の短歌にはことばにならないまま、たしかに存在する。
言い直すと、須田は「体験」を書いている。
体験を書いているということだけなら、歌人のすべては体験を書いていると主張するかもしれないけれど、私はそうは考えていない。「頭」で書いている短歌がたくさんあると思う。
須田も「頭」で書く部分があるかもしれない。それが「借りてきたことば(本で読んだことば)」なのだが、その「本で読んだことば」さえ、「体験」として噴出してきている。
つまり、須田がインドへ行って、そこでいままで知らなかったインドの「現実」を体験する。その「知らなかったこと」をことばにするのはなかなかむずかしくて、どうしても知っていることばに頼らざるを得ない部分がある。そういう必然に迫られて「本で読んだことば」をつかっている。「本で読んだ」が「体験」となって噴出してきているのだ。
たとえば「道に倒れたブッダ」というのは、須田が目撃したことではない。だれかが本に書いていた。本で読まなかったかもしれないが、須田は、そういう「話」を聞いたことがあるのだろう。直接体験ではなく、間接体験。そして「間接体験」のなかにある、「共有された事実」としてのことば。それに頼って、自分の体験をととのえているのだ。ことばにしているのだ。
スジャータの素朴なだけの乳粥は冷めゆくほどに甘みを増した
「素朴なだけ」は素材が少ないということだろう。そういうことは実際に飲んでみれば(食べてみれば)わかることかもしれないが、やはり「他者から与えられた現実/知識(ことば)」と言えるだろう。そういうものと「甘みを増した」という須田の肉体でしか感じられないものが一緒に書かれている。「我」が「肉体」として書かれてる。
曇天は忽然として晴れわたるブッダの座る菩提樹の上
この歌では「ブッダの座る菩提樹の上」が「本で読んだことば」といえるかもしれないが、私はなぜか、それは「本で読んだことばではないなあ」と感じた。むしろ、「曇天」「忽然」「晴れたる」に「本で読んだことば」を感じた。曇っている空が突然晴れる。その「時系列」のととのえ方。「忽然」ということばで「時系列」だけではなく「時間」の長さそのものをあらわす方法。それは「本の中(ことばの伝統の中)」で築き上げられてきたものだ。
その「忽然」を体験したとき、そこにたまたま「菩提樹」があったのだろう。「忽然」と「菩提樹」が抜き差しならないものとして、ここで出会っている。「ブッダの座る」はその「出会い」の衝撃を緩和するための「知恵」のように感じられる。
こんなふうに書いてしまうと、こんな指摘では、どれが「いつも話していることば」で、どれが「本で読んだことば」かわからない。何も指摘したことにならないといわれそうだが。
そこなんだよなあ、と私は思うのだ。
はっきり区別ができない。区別しても、それでどうなるものでもない。そういうものが、ここにある。
そして、それは実際に須田がインドでこの歌集に編まれている歌を読んだということがあるからなのだ。どの歌もインドでつくっている。その「正直」が、「いつも話していることば」と「本で読んだことば」という形でぶつかっている。
こういうことを書くと、ちょっと申し訳ないのだが、この歌はすばらしい、感激したということはないのだが、どの歌もみんな「正直」に、「ほんとう」を書いている。それが伝わってくる。この「ほんとう」は、現代の短歌では、非常に珍しい。「ほんとう」というのは、こんなふうに、ちょっと救いようないというか、どうすればいいかわからない何かとしてとどまるものなんだろうなあ。
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