詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ゴルフをしていないがニュースなのか。

2020-08-12 10:54:48 | 自民党憲法改正草案を読む
ゴルフをしていないがニュースなのか。
   自民党憲法改正草案を読む/番外375(情報の読み方)

 昨日、2020年08月11日の読売新聞(西部版・14版)4面に気になるニュースが載っている。

首相 正月以来のジム

 内容は見出しどおり。
 なぜ、気になるかというと、長崎原爆の日の記者会見の写真が代表撮影であったということ関係がある。私は、代表撮影に疑問を持った。体調が悪いのを知られないようにするために、官邸が写真を「厳選」しているのではないか、と思った。
 そこから推測すると。
 ジムへ行ったということは、「体調がいい」(悪くない)ことをアピールするためではないのか。体調不安説を否定するための「演出」ではないのか。
 ジム通いについては、以前、週刊誌かなにかで、運動はしていない。主治医の治療をホテルで受けている。それを隠すために「ジム通い」を装っている、という記事を読んだことがある。
 読売新聞には、実際に何をしたのかは、書いていない。もちろん運動している写真もない。
 私が気になったのは、この内容の記事が、どうも読売新聞以外のメディアでも報道されたということ。
 こんなプライベートなことを、わざわざほかのメディアも報道するというのは、このニュース自体が官邸からリークされたものということだろう。言い直すと、このニュースには「意図」があるのだ。
 「意図」をどう読むか。
 私は、やっぱり、「病気隠し」と読む。体調不安説を否定する意図があると読む。

 それが証拠に、というと変だけれど。
 読売新聞の記事の末尾は、こう書いてある。

 首相は趣味のゴルフにも1月4日以来、行っていない。

 首相としての仕事が忙しくて、ゴルフもしていない。一生懸命働いているという印象を植えつけようとしている。しかし、ほんとうに激務のためにゴルフに行くことができないのか。あるいは、最低限譲って、コロナ拡大の中、首相がのんきにゴルフをするのはどういうものか、という批判をかわすためにゴルフにいかないのか。
 でもねえ。
 首相にとっての「激務」とは「国会」で国の方針をリードすることだろう。そのために予算、法案を提出することだろう。
 ところが、国会の閉会中審議に安倍は出てきていない。臨時国会を開くことも拒んでいる。自宅か、官邸かしらないが、ずっーととじこもっている。何もしていない。「激務」からほど遠い生活である。
 なのに、

 首相は趣味のゴルフにも1月4日以来、行っていない。

 これは、おかしいでしょ? ジムへ行ったは、その日の「ニュース」かもしれないが、いままで「趣味のゴルフもしていない」ということがニュースになりうるとしたら、いままでずっと国会に拘束されていた、問題解決に没頭していたということが報じられなければ、意味がない。問題が解決したから、やっと自由な時間がとれた、という形でないと報道としておかしい。
 国会に出てこないで雲隠れしている安倍に対して、「ゴルフもできないなんてかわいそう」といったいだれが思うか。
 だれも思わないはずなのに、そう思わせようとしている。

 なんとも露骨な「よいしょ」である。他の報道機関が、「ゴルフもしていない」まで書いているかどうかわからないが、ぞっとしてしまう。
 そして、なんといえばいいのか。
 こんな具合に書いて、「私は安倍の味方です」と言わないといけない読売新聞は、なんとあわれなメディアなのだろう。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 

*

「情報の読み方」は9月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 


*

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(90)

2020-08-12 10:18:56 | 嵯峨信之/動詞
* (秋の葉を一枚一枚縫うようにして)

ぼくに何を教えようというのか
わたしは人生にうとい

 「ぼく」が次の行で「わたし」にかわる。そして、この「うとい」は次の行で、こう言い直されている。

樫の大木に蝶たちが疎いように

 「疎い」の主語は、蝶。蝶が「わたし」であり、「人生」は「樫の大木」である。単なる樫ではなく「大木」。
 これは「秋の葉」の「一枚」に対応している。
 一枚の葉と大木は関係はあるが、その関係に「自覚」があるかどうかは、わからない。たぶん「うとい/疎い」とは自覚のことなのだ。その「自覚のうとさ/疎さ」が「ぼく」と「わたし」という呼称のずれのようなものに象徴されているということか。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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