粕谷栄市「小さい馬」(「森羅」26、2021年01月09日発行)
詩は何か。詩はことばだ。そして、詩は何よりも音楽だ。粕谷栄市の「小さな馬」を読みながら、あらためて、そう思った。
ことばは少しずつしか進んでいかない。あまりに少しずつなので、進んだかどうか、動いているときは気がつかない。しかし、段落が変わるたびに、たしかにことばは動いているのだとわかる。
このリズムが変わらない。
粕谷の詩は、リズムが「正確」なのだ。
いや、これは正確には「テンポ」と言い直すべきなのかもしれない。
音楽には、簡単に分けると「古典」と「ポップス」がある。「古典」はメロディーは変わることがないが、テンポは演奏者(指揮者)によって変わる。一方、「ポップス」はリズムを変えないがメロディーは演奏者によって変わる。即興だ。
粕谷は、何を書いてもいつも一定の「テンポ」でことばが動く。素材は変化する。もし、この粕谷の「テンポ」を「リズム」と言い換えてしまうと、「リズム」が一定で、素材(ストーリー? 音楽でいえばメロディー?)が変わるのだから「ポップス」になってしまうが、実は、そうではない。
少し言い直そう。
「ポップス」のなかの「リズム」の維持は、あくまでその曲においてのこと。別の曲では別の「リズム」がある。だから、曲(素材)が変わればリズムが変わる。
粕谷の「テンポ」の維持は、ひとつの曲(素材)のなかでの維持ではなく、複数の素材(曲)を通しての維持なのである。どの作品も、きまった「テンポ」でことばが動く。「小さな馬」が「小さな猿」になっても、あるいは「白髪の老人」になっても、おなじ「テンポ」を守って動く。
このために、どの曲もおなじだなあ、という印象を持ってしまうことがある。またおなじ「テンポ」か。マンネリだなあ。素材がつぎつぎにかわるのに、同工異曲に感じられるのは、この「テンポ」のせいである。
ここからが、かなり微妙な問題になる。
私はついさっき「マンネリ」ということばをつかったが、同じものに触れると「退屈」と感じるときと、「安心」を感じるときがある。そして、それは相手(粕谷)のことばの方に「原因」があるというよりも、私の「肉体」の方に原因がある。その日の「体調」で、その「テンポ」が気持ち良かったり、いらいらしたりする。
これは、どういうことか。
詩を読むとき、私は「意味」(論理)を読んでいないいうことなのだ。
「論理」なら正しいか、正しくないかを基準にして、いつもおなじ結論へたどりつくことができる。これは私にとっては正しくない(同意できない/共に行動できない)結論である、これは私にとって正しい(実行できる)結論であるということができるし、そうしなければ「論理」を批判したことにはならない。
けれど「生理的反応/体調次第の反応」は、「論理」とは無関係なのだ。「頭」で正しいと判断しても、「きょうは、それをしたくない」ということがおきる。これをしてはいけないと「頭」が判断しても、がまんでいない、してしまう、ということがおきる。
これは、いいことか、悪いことか。
私は判断しない。いや、いつでもその場限りで判断してしまうといった方がいいのか。よくわからないが、テキトウに揺れ動くままにしている。
詩を、そういう揺れ動きのなかで読んでいる。揺れ動きを許容してくれるものが詩のことばだと思っている。
だんだん脱線して行ってしまう。
「テンポ」のことに話をもどそう。
粕谷の詩には独特の「テンポ」がある。メロディーを聞いて、あ、これはだれそれの曲だとわかるように、「テンポ」を聞いてこれは粕谷の詩だとわかる、といえばいいのか。いったん採用した「テンポ」を、どの素材にも適用する。「テンポ」で素材の動きそのものを制御するのである。
「ポップス」の「リズム」は、逆なのだ。「リズム」を守ることで、素材(メロディー、楽器)の動きを解放する。「リズム」さえ守れば、どんな音を出しても許容する。
もちろん「制御」と「解放」は正反対の概念であるがゆえに、逆のこともいえる。
粕谷は「テンポ」の維持によって音を自由にしている(どんな素材でも詩にしている)、「ポップス」は「リズム」による拘束に対して音が自由を求めて戦っている、と。
また、脱線したか。
「論理」を書こうとすれば、「後出しじゃんけん」でどうとでもことばを動かすことができるので、脱線、脱線、脱線の連続になってしまうのだ。
今度こそ、粕谷の詩に戻ろう。
粕谷の「テンポ」とは何なのか。
詩の最後は、こう締めくくられている。
私は「テンポ」と書いたが、それはたしかに「テンポ」というようなことばをつかって書くことでも、また「リズム」と比較しなければならないような「大げさなことではない」のである。すべてを「大げさではない」という距離で向き合う。その「距離の取り方」がそのまま「テンポ」になっている。「誰からも遠」という距離が、そのまま「テンポ」を産み出している。
対象がなんであろうが、自分の「テンポ」でことばを動かす。
詩の途中には、こんなことばもある。
「それだけ(のはなし)」「……だけのこと」。この突き放した距離感が粕谷の「テンポ」である。何が起きても「それだけ」という「距離」を保つ。
この「距離」が、なぜ「テンポ」なのか。
たぶん心臓の鼓動のようなもの、「肉体」そのもの「リズム」が影響しているのだろう。「肉体」はいつでもまわりにあるものの影響を受ける。まわりの「リズム」の変化によって興奮したり、落ち込んだり、鼓動そのものが変化する。つまり、どきどきしたり、元気がなくなったりする。
そいういう「影響力」のある「リズム」(まさに、ポップスだね、いまのリズムだね)から離れることが、自分の「肉体」を取り戻す第一歩だからである。「いまの影響力の支配」と距離を取ることは「テンポ(他者とは共有できない固有の鼓動)」取り戻すことなのだ。
で、ここから「古典」と「ポップス」の演奏に戻ってみよう。
「古典」では演奏者がそれぞれ自分固有の「鼓動」にしたがって「テンポ」を主張し、それをメロディーに共有させる。「ポップス」では「いま、そこにあるリズム」を共有し、そのうえでメロディーを解放させる。
粕谷のやっていることは、音楽でいえば「古典の演奏」なのである。「古典」は、そこにある、それだけのことである。でも、それでいい、と思ったとき、粕谷のことばが気持ちがいい。体調次第では、そこにあるだけなんて、いや、と思うときもある。
そういうところに到達していることばである。
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詩は何か。詩はことばだ。そして、詩は何よりも音楽だ。粕谷栄市の「小さな馬」を読みながら、あらためて、そう思った。
小さな馬だ。手のひらに、何頭も乗せられるほどの小
さい馬だ。誰にも言わないが、遠い草原に、私は、彼ら
の群れを放し飼いにしている。
自分がどんなところにいようと、私は、好きなときに
彼らを見ることができる。自分の右手の親指と人差し指
で丸い輪を作り、そこを覗くと、青空の広がる小さい草
原の小さい樹木のまわりに、小さい馬たちが見える。
ことばは少しずつしか進んでいかない。あまりに少しずつなので、進んだかどうか、動いているときは気がつかない。しかし、段落が変わるたびに、たしかにことばは動いているのだとわかる。
このリズムが変わらない。
粕谷の詩は、リズムが「正確」なのだ。
いや、これは正確には「テンポ」と言い直すべきなのかもしれない。
音楽には、簡単に分けると「古典」と「ポップス」がある。「古典」はメロディーは変わることがないが、テンポは演奏者(指揮者)によって変わる。一方、「ポップス」はリズムを変えないがメロディーは演奏者によって変わる。即興だ。
粕谷は、何を書いてもいつも一定の「テンポ」でことばが動く。素材は変化する。もし、この粕谷の「テンポ」を「リズム」と言い換えてしまうと、「リズム」が一定で、素材(ストーリー? 音楽でいえばメロディー?)が変わるのだから「ポップス」になってしまうが、実は、そうではない。
少し言い直そう。
「ポップス」のなかの「リズム」の維持は、あくまでその曲においてのこと。別の曲では別の「リズム」がある。だから、曲(素材)が変わればリズムが変わる。
粕谷の「テンポ」の維持は、ひとつの曲(素材)のなかでの維持ではなく、複数の素材(曲)を通しての維持なのである。どの作品も、きまった「テンポ」でことばが動く。「小さな馬」が「小さな猿」になっても、あるいは「白髪の老人」になっても、おなじ「テンポ」を守って動く。
このために、どの曲もおなじだなあ、という印象を持ってしまうことがある。またおなじ「テンポ」か。マンネリだなあ。素材がつぎつぎにかわるのに、同工異曲に感じられるのは、この「テンポ」のせいである。
ここからが、かなり微妙な問題になる。
私はついさっき「マンネリ」ということばをつかったが、同じものに触れると「退屈」と感じるときと、「安心」を感じるときがある。そして、それは相手(粕谷)のことばの方に「原因」があるというよりも、私の「肉体」の方に原因がある。その日の「体調」で、その「テンポ」が気持ち良かったり、いらいらしたりする。
これは、どういうことか。
詩を読むとき、私は「意味」(論理)を読んでいないいうことなのだ。
「論理」なら正しいか、正しくないかを基準にして、いつもおなじ結論へたどりつくことができる。これは私にとっては正しくない(同意できない/共に行動できない)結論である、これは私にとって正しい(実行できる)結論であるということができるし、そうしなければ「論理」を批判したことにはならない。
けれど「生理的反応/体調次第の反応」は、「論理」とは無関係なのだ。「頭」で正しいと判断しても、「きょうは、それをしたくない」ということがおきる。これをしてはいけないと「頭」が判断しても、がまんでいない、してしまう、ということがおきる。
これは、いいことか、悪いことか。
私は判断しない。いや、いつでもその場限りで判断してしまうといった方がいいのか。よくわからないが、テキトウに揺れ動くままにしている。
詩を、そういう揺れ動きのなかで読んでいる。揺れ動きを許容してくれるものが詩のことばだと思っている。
だんだん脱線して行ってしまう。
「テンポ」のことに話をもどそう。
粕谷の詩には独特の「テンポ」がある。メロディーを聞いて、あ、これはだれそれの曲だとわかるように、「テンポ」を聞いてこれは粕谷の詩だとわかる、といえばいいのか。いったん採用した「テンポ」を、どの素材にも適用する。「テンポ」で素材の動きそのものを制御するのである。
「ポップス」の「リズム」は、逆なのだ。「リズム」を守ることで、素材(メロディー、楽器)の動きを解放する。「リズム」さえ守れば、どんな音を出しても許容する。
もちろん「制御」と「解放」は正反対の概念であるがゆえに、逆のこともいえる。
粕谷は「テンポ」の維持によって音を自由にしている(どんな素材でも詩にしている)、「ポップス」は「リズム」による拘束に対して音が自由を求めて戦っている、と。
また、脱線したか。
「論理」を書こうとすれば、「後出しじゃんけん」でどうとでもことばを動かすことができるので、脱線、脱線、脱線の連続になってしまうのだ。
今度こそ、粕谷の詩に戻ろう。
粕谷の「テンポ」とは何なのか。
詩の最後は、こう締めくくられている。
いや、大げさなことをは言うまい。そんなことではない。
私のように、誰からも遠ざけられて、いつも独りでい
る人間の、淋しく、小さい病気のような夢のなかのでき
ごとにすぎないのである。
私は「テンポ」と書いたが、それはたしかに「テンポ」というようなことばをつかって書くことでも、また「リズム」と比較しなければならないような「大げさなことではない」のである。すべてを「大げさではない」という距離で向き合う。その「距離の取り方」がそのまま「テンポ」になっている。「誰からも遠」という距離が、そのまま「テンポ」を産み出している。
対象がなんであろうが、自分の「テンポ」でことばを動かす。
詩の途中には、こんなことばもある。
その通りなのだ。それだけのはなしなのだ。手のひら
に、何頭も乗るほどの小さい馬を、私が、遠い野原に、
放し飼いにしていて、ときどき、それを見ているという
だけのことなのだ。
「それだけ(のはなし)」「……だけのこと」。この突き放した距離感が粕谷の「テンポ」である。何が起きても「それだけ」という「距離」を保つ。
この「距離」が、なぜ「テンポ」なのか。
たぶん心臓の鼓動のようなもの、「肉体」そのもの「リズム」が影響しているのだろう。「肉体」はいつでもまわりにあるものの影響を受ける。まわりの「リズム」の変化によって興奮したり、落ち込んだり、鼓動そのものが変化する。つまり、どきどきしたり、元気がなくなったりする。
そいういう「影響力」のある「リズム」(まさに、ポップスだね、いまのリズムだね)から離れることが、自分の「肉体」を取り戻す第一歩だからである。「いまの影響力の支配」と距離を取ることは「テンポ(他者とは共有できない固有の鼓動)」取り戻すことなのだ。
で、ここから「古典」と「ポップス」の演奏に戻ってみよう。
「古典」では演奏者がそれぞれ自分固有の「鼓動」にしたがって「テンポ」を主張し、それをメロディーに共有させる。「ポップス」では「いま、そこにあるリズム」を共有し、そのうえでメロディーを解放させる。
粕谷のやっていることは、音楽でいえば「古典の演奏」なのである。「古典」は、そこにある、それだけのことである。でも、それでいい、と思ったとき、粕谷のことばが気持ちがいい。体調次第では、そこにあるだけなんて、いや、と思うときもある。
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