詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ホテルの企業秘密ではなく、安倍の秘密。

2020-12-25 18:45:58 | 自民党憲法改正草案を読む
ヤフーポストが、安倍の国会での「弁明」を速報している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d93cbe5eed5064c4acd39fba5ec4154b346a3dbb?fbclid=IwAR3Ygs5Hry1AGAUkcPY8sofKmq2iBM7yimZbVAHQ7FYk2t8SWS8jDBajUGQ

そこに辻本とのやりとりが書かれている。私が注目したのは、安倍のつぎの発言。

安倍「営業上の機密ということについてですね、明細書を出さないという(ホテル側の)立場が変わっていないと私は承知しております」
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安倍が「承知している」かどうかではなく、明細書を出してもらうために安倍がどういう努力をしたのかが問題。
「私は、いま、こういう状況にある。経緯を説明するために、どうしても明細書が必要なので、明細書の提出してほしい」ということを文書で正式に申し入れ、それに対してホテル側が文書で「営業上の秘密なので提出できない」と文書で回答する。
そういう「記録」が必要。
いま問われているのは、安倍政権下でおきたさまざまな「文書廃棄」が原因。
桜を見る会の名簿も廃棄されている。
文書の廃棄によって、すべてのことが「検証不可能」になっている。
これを改めるためにも、ホテルが「営業上の秘密なので出せない」と回答した文書が必要。
「承知しております」という言い方なら、「補填」も「事務所はいっさい関係ないと承知していた(認識していた)」だろう。
「知らない」と主張するだけでは不十分。「知る」ために何をしたのか、それが問題。
それに。
もっと根本的な問題もある。
最初「企業秘密」といったとき、半額の会費(個人負担)5000円で前夜祭を開催できる理由が「企業秘密」だったはず。なぜ安倍の会だけ安価でできるか。それはたしかに「秘密」にしてもいいことかもしれない。
しかし、実は5000円ではできなかった。つまり、安倍の会は、他の人の会と変わりはなかった。「秘密」にするべきことはない。
ひとり1万円、800人なら800万円。そういう「人数×会費=総経費」という明細は、共通なのだから「秘密」になるはずがない。
いまからでも、ホテルから明細を取り寄せ、きちんと公開し、安倍はこういう嘘をついていたということを「記録」として残す必要がある。
これはさらに言い直すと。
「秘密」はホテル側にはなかった。ホテルは他の会と同じように安倍側に費用を請求し、請求通りに支払ってもらった。
「秘密」は安倍の側にあった。
つまり会費5000円では開催できなかった。差額は安倍が補填した。これは「秘密」。
なぜか。ばれると、有権者への寄付(贈賄、買収)になるからだ。
犯罪だから「秘密」にする必要があった。
それなのに、安倍は、あたかもホテル側が「秘密」を持っているという言い方をした。
こういうことは、きちんと「記録」しないといけない。

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いのうえあき『紡錘形の虫』

2020-12-25 10:15:40 | 詩集


いのうえあき『紡錘形の虫』(書肆山田、2020年12月10日発行)

 いのうえあき『紡錘形の虫』の巻頭の詩「祭りのように」が魅力的だ。

ハサミで
切った。

そら

ずれた

 短い。何があったのか。ここに書かれていることだけがあった。つまり、書かれなければ何もなかったことが、書かれることによって「ある」(あった)に変わった。
 ハサミで何を切ったのか。書いていない。だから、私は、二連目出てくる「そら」を切ったのだと思った。紙を切ると、紙がずれる。そんなふうに空がずれる。それは、ことばをとおしてだけ存在する世界だ。
 一連目には句点「。」がある。二連目には「。」がない。まだ、どこかへことばはつづいていこうとしている。どこへ? それは読者のことばの問題。いのうえは、読者が詩を読むことを誘っているのだ。
 いのうえが、ことばのハサミで何かを切る。そのとき何かが「ずれる」。そこから詩が始まる。
 「ハサミ」ではなく「ことば」をそのまま書いた詩もある。「ことば」。

箱庭のような空間に
ことばを置く

そら うみ まち
雨を降らせて
雪を降らせて

ことばは転がりだすと
痛くて つまずく
傾斜ばかりのまちを
転がりつづけ
ことばの顔が かわる

記憶のうみの
とおいところで
初めて歩きはじめる
生きものの声

 「ことば」から「声」が生まれる。「声」になることは、きっと詩になること。
 知っていることばを、知っている確かさで動かしている。ここに、まるで赤ん坊のような正直を私は感じる。
 短いから、嘘が入り込む余地がない。
 その「声」は、逆に「沈黙」へと結晶していき、詩として輝く。それは、まったく新しい世界そのものの誕生である。
 「沈黙のせかい」。

夏の河原で
石は
石のまま
集まっている

夕闇に立ち
水底を見つめて
鷺は
首をかしげたままだ

土手の片すみに
くちなしの花
贈られた白さを
こぼしている

呼び声は
しずけさを湛えて
彼方から
渡ってくる

 「石は/石のまま」であるように、すべてはそれが、あるが「まま」なのだ。かわりがない。存在(もの)はことばによってかわりはしない。ことばがどんなふうに働きかけようが、あるがまま。
 だとしたら?
 ハサミで切ったとき、「ずれた」のは何?

 詩が「ずれた」のだ。詩が、普遍なものから井上個人のものへと「ずれた」。そして、そのことでさらに詩になった。新しい普遍に触れたのだ。
 こういう言い方は矛盾しているが、詩は、別のことばで語りなおせば矛盾したものになるしかない。それは「共通語」ではなく、あくまでも「個人語」だからである。
 だからこそ、「誤訳」し、「誤読」し、そのなかへ入って、楽しむのだ。


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私的支出のための預金?(情報の読み方)

2020-12-25 09:29:11 | 自民党憲法改正草案を読む
私的支出のための預金?(情報の読み方)

 2020年12月25日の読売新聞(西部版・14版)。「桜」前夜祭、安倍不起訴の記事が展開されている。
 いくつかの見出し、記事ががあるが、注目したのは

補填「私の預金」

①安倍前首相は24日の記者会見で、安倍前首相側が主催した「桜を見る会」前夜祭の費用の一部として後援会から補填資金は、私的な支出のために事務所に預けていた「手持ち資金」で賄ったと説明した。
②安倍氏は「日々、食費や交通費などの費用は事務所に請求書が来るので、事務所で支払う。預金からおろしたものを事務所に預けており、そこから立て替えたということだ」と語った。

 である(番号は私がつけた)。
 ①の「手持ち資金」を②で「(私の)預金」と言い直している。ふつうは、なんにつかっているのか。①で「私的な支出」といい、②で「食費や交通費」と言い直している。なぜ、事務所が「私的な支出」を管理しているかといえば、②で「事務所に請求書が来る」と説明している。
 これだけを読めば、「整合性」がとれている。だから、記者会見でも、これをさらに追及していくということはなかった。
 私が疑問に思うのは、②の「事務所に請求書が来る」、その「請求書」のうち、どれが①の「私的な支出」に当たるのか、だれが判断したのか。何を根拠に「私的な支出」と判断したのか、その基準が示されなかったこと。(問われなかったこと)。「請求書」の明細(食事代など)をきちんと仕分けしていたのか。
 さらに②で「預金からおろしたもの」とあるが、この「おろした」の主語は誰なのか。安倍なのか、昭恵なのか、それとも「事務所」の責任者なのか。また、①「私的な支出」というかぎりは、毎月の「使用額」はだいたい決まっていると思う。請求書がくるたびに、その合計金額を計算して預金を引き下ろし、支払うということはないように思う。それは毎月いくらぐらいだったのか。
 もし、毎月「一定額」を引き下ろしていたのなら、そこから補填額(4年間で708万円、と記事中にある)を、どうやって工面したのだろうか。月々「予備費」として金庫で貯めつづけたのか。補填が必要なときだけいつもよりも多くの金額を引き下ろしたのなら、その月だけなぜ突出して金額が多いのか、なぜ安倍は気がつかないのだろうか。
 預金というからには、「通帳」に「記録」が残っているはずである。それを提出し、「補填」がどのような形で実行されたのか、「説明」する意志はあるのか。
 これを、記者にはぜひ追及してほしかったし、また、きょう(25日)に開かれる国会でも追及してもらいたい。(この文章を読んでいる国会議員はいないだろうけれど、私は、提案しておきたい。)
 ②には「立て替え」ということばが出てくる。この「立て替え」は「安倍晋三後援会」が支払うべきものを、東京の「事務所」が「立て替えた」ということである。東京の事務所がしたことが「補填」ではなく、「立て替え」というのなら、「安倍晋三後援会」から東京の「事務所」に「立替金」の「支払い」がないといけない。その「記録(領収書/請求書)」はあるのか。
 おなじ「安倍関連事務所」だから、「領収書/請求書」というものがないというのであれば、「東京の事務所」が「立て替えた」という「論理」は成り立たない(証明できない)し、それは結局「安倍の私的預金から支払った」ということも証明できない。「補填の原資」の説明にはならないだろう。「立て替え」ではなく、東京の事務所が支払った(補填した)のであり、それは安倍の「私費」から支払ったのだ。「立て替え」なら、安倍の「私的預金口座」に払い込みがなければいけない。
 さらに、「補填」が「安倍の私的預金」からおこなわれたというのであれば、「補填」の恩恵を受けた桜を見る前夜祭の参加者に、安倍から「一定の金額」が寄付された、贈与されたということになる。これは「政治資金規正法」というよりも「公職選挙法」の問題になるのではないか。安倍は「原資は私的預金」と明言している。事務所が集めた金から支出しても、公選法違反になると思うが、「原資は私的預金」と言った意味は大きいと思う。「立て替え」ではなく、「収賄」(贈与)だろう。
 たとえば忘年会で、追加の酒、料理を注文して、会費をオーバーした。そのとき追加分をその会の「幹事(会計責任者)」ではなく、「部長」が「立て替えた」。その後、その「立て替え」を参加者が支払ったということがなければ、その「立て替え」は部長の「おごり(贈与)」である。
 そういうことを、安倍は記者会見で認めたことにならないか。
 政治資金規正法のことはよくわからないが、金の流れの「実感」として、私は、そう感じる。
 読売新聞は、このことを「1段見出し」で小さく紹介しているが、もっと追及すべき問題が隠れていると思う。

 もうひとつ、ぜひ書いておきたいことがある。読売新聞には書かれていないが、「いつ知ったか」の問題である。
 安倍は記者会見で、秘書が聴取を受けているという「報道」のあと、初めて知った。秘書から報告を受けたと言っている。
 これを聞いた瞬間、「既視感」に襲われた。秘書に責任を押しつけることは予想できたが(多くのひとが予想していたが)、どんなふうに「押しつけるか」ということまで私は予想していなかったので、「報道の後」というようなことばを聞いた瞬間に、別のことを思い出したのだ。
 加計学園問題である。加計学園が「獣医学部」の設置を希望していることをいつ知ったか。それを問われた安倍は、獣医学部設置の問題が文科省(だったっけ?)で審議されて、そのとき初めて加計学園が新設枠に応募していることを知った、と答えている。
 このとき国会では、「ええーっ」という驚きの声が響きわたった。
 誰ものが知るようになってから、つまり「公表」されてから初めて知った。
 この「論理展開」が加計学園とそっくりである。もっと前から知ることができたのではないか、加計から働きかけがあったのではないか。これに対して安倍は、そういうことはない。そういう「記録はない/事実を証明するものはない」と言い張った。
 「記録がない(公表されていない)」ということを、安倍は「知らなかった」の根拠にしている。
 そして、このことは逆に言えば、「記録」さえなければ、すべてを「知らなかった」で処理できると考えているということである。
 これが、あらゆる安倍疑惑の問題につながっていく。「記録(文書)」の廃棄。証拠隠滅である。これまで安倍がやってきたことを、前はそれでうまく言い逃れられたから、また繰り返しているといことなのだ。
 どこまでもどこまでも「既視感」だらけなのは、このためだ。

 で。
 だからこそ、「補填原資は私的預金」と答えたことが重要になる。「預金」はいつも「預け入れ」と「支払い」の記帳(記録)によって管理される。その記録(記帳)の公開をどこまで国会は追及できるか。「私的預金」だからプライバシーを盾に公開を拒否するだろう。しかし、そこから「立て替えた」と安倍は明言しているのである。明言しているならプライバシーも何もないだろう。
 ぜひ、追及してほしい。

 もうひとつ、「見出し」になっていないが、非常におもしろい「記事」が社会姪に書かれていた。問題の秘書の「人間像」に迫る社会面の記事である。末尾に、こう書いてある。
 
 前夜祭費用の補填問題が報じられた11月下旬。配川容疑者は周囲に「連夜、桜を見る会で頭が痛い」と漏らしたという。読売新聞は複数回、配川容疑者に取材したが、質問には答えなかった。

 では。
 11月23日の「特ダネ」から始まった一連の記事の中で、「安倍にうそをついてもらった」というような配川容疑者の「声」は、いったいどこから入手できたのか。聴取しているのは特捜本部である。一連のリーク元が特捜本部であるという「種明かし」を読売新聞は、最後で、ぽろりと「正直」にさらけだしている。
 リーク元が特捜本部であるかぎり、その捜査の「行方」もリークされただろう。「結果」が未定(見込み)のまま捜査情報をリークするはずがない。ということは、すべてが「情報操作」であるといことだ。繰り返し繰り返し、問題は「政治資金規正法違反」であり、それは秘書の問題という記事を書くことで、安倍批判を弱めていく。安倍が不起訴になるのは当然だという論理を納得させるために記事が書かれ、そのシメとして安倍の「会見」が設定された。たぶん、最初から、そういうシナリオだったのだ。秘書の犯罪を糾弾するのではなく、秘書が犯した犯罪を、秘書に代わって謝罪する。会見では、「3度頭下げ」たと読売新聞は見出しにとっている。読みようによっては、秘書の犯罪のために、安倍がこんな目にあうなんてかわいそう、と思うひとも出てくるだろう。
 私は、安倍が頭を下げようが(それが何回であろうが)、そんなことは気にもならない。安倍が辞任するか、どうかが安倍自身の行動として問題だ。どうせ、「頭を下げる」という演技をしただけなのだ。







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