詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(107)

2020-12-12 15:51:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


どこからでも手が出る
足ものばすことができる
だが心がでないのはなぜか

 この「心がでない」は「出ない」だろうか。
 「円の中心」ということばがある。それは「ことば」として存在するが、ふつうは見えない。必要に応じて「点」が記される。この「中心」ということばから「心」を取り出し、手、足と対比させたところがとてもおもしろい。たしかに「円」から「(中)心」は出ることができない。中にあるからこそ「(中)心」なのだ。

 こういう「肉体」をつかった表現が、嵯峨には、ほかにあっただろうか。
 私は思い出せない。
 このあと詩のことばは抽象化していく。書き出しの三行も抽象といえば抽象なのだが、手、足という具体的な肉体と「心」が交錯するので、不思議なおもしろさがある。「頭」だけではなく「肉体」を刺戟してくる抽象だと感じる。



*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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最果タヒ『夜景座生まれ』

2020-12-12 10:50:08 | 詩集


最果タヒ『夜景座生まれ』(新潮社、2020年11月25日発行)

 最果タヒ『夜景座生まれ』の「36°C」という詩に、あっ、と叫んでしまった。とても珍しいことばがあったからだ。私はまだ31ページまでしか読んでいないから、そのあとの詩のなかに出てくるかもしれない。確証はないのだが、私の記憶のなかでは、いままで最果がつかってこなかったことばだ。そして、それは最果の詩を読むときの「キーワード」になることばであるとも思った。
 
ぼくの恋人は(ぼくに恋人はいないが)(水色や白色の
混ざった景色を見ていると、それでもいるような予感が
して、というより、ぼくの恋人は、と語り始めることが
許されているように感じる、そこに具体的な人間がいな
くても、想像の中にある一言や、一つの動きだけであっ
たとしても、それだけで語り出すことが許されているよ
うに感じる、愛するとは、なんなのかについて、虫も葉
も水も興味がないのに、こんなにも主題となって、人間
の呼吸、人間の木漏れ日、人間の波に変わっていき、ぼ
くはぼくが恋人を得るまで、人間というものを自然の景
色のひとつとして捉えられない気がしている)

 私が驚いたのは四行目に出てくる「具体的」ということばである。最果は、これまで「具体的」なことを何か書いてきただろうか。すべては「抽象」ではなかったか。最果にとっては「抽象」こそが「具体」ではなかったのか。
 なぜ、ここで「具体的」ということばが出てきたのか。
 書くしかなかったからである。「抽象こそが具体である」という考え方、そう考えることばの運動が最果の「肉体」になってしまっているからである。そのことを説明するのに、しかたなく(?)「具体的」とういうことばが顔をだしたのである。
 私は何年か前、谷川俊太郎の『女に』を読んだとき、同じことを感じた。「少しずつ」ということばが詩集の中に一回だけ出てくるのだが、それは一回しか出てこないからこそキーワードなのである。いつも、どこにでも「少しずつ」は隠れて動いている。ことば全体を動かしている。けれども、それはもう「ことば」ではなく「肉体」になっている。たとえていえば、自転車に乗るとか、泳ぐとかというときの「肉体」の動きである。長い間自転車に乗っていなくても、泳いでいないくても、ひとはいつでも自転車に乗れるし、泳げる。「肉体」が覚えてしまっていて、からだをどう動かすかなど意識しない。無意識に動かしてしまう。その無意識を支えるのが『女に』の場合は「少しずつ」だった。
 同じことが最果の詩についても言える。「具体的」はいつでも最果のことばを動かしているのである。それも「無意識」の力で。

 言い直そう。

ぼくの恋人は(ぼくに恋人はいないが)

 と最果は書き始める。「恋人」は「現実」には存在しない。いわば、それは「概念」である。概念とは抽象化された思考の運動である。ある方向に向かって意識をひっぱっていくものである。そこには、「具体的」なもの何もない。もしあるとすれば、「考える」ときに動かす「ことば」だけが「具体」なのである。
 「恋人」がいなくても「ぼくの恋人は」と考え始めることができる。このとき「考え」をひっぱっていくものを最果は「予感」と読んでいる。「予感が現実に変わる」を、「ことばが現実にかわる」と言い直せば、あるいは「ことばが現実になる(現実をかえる)」と言い直せば、それはいわゆる「言霊(ことだま)」になってしまうが、最果のことばを支えているのは、いまはまだ存在しない「予感」というものだけが最果にとって「現実」であるという意識だ。
 最果のつかっている「具体」は、「現実」には存在しない「具体」である。だからこそ、それは「具体的」と「的」ということばと一緒に存在している。
 谷川の「少しずつ」がいつでもどこでも補えることばであった(だからこそ、それは多くの場所では無意識的に省略されてしまった)と同じように、最果の「具体的」もまた多くの場所に補うことができる。
 たとえば、

ぼくの恋人は、といっても「具体的に」言うと(言い直すと)ぼくに恋人はいないが

というより、ぼくの恋人は、と「具体的に」語り始めることが許されているように感じる
想像の中にある「具体的な」一言や、「具体的な」一つの動きだけであったとしても、それだけで「具体的に」語りだすことが許されているように感じる

 「想像の中にある具体的なもの」とは、実際には「想像の中にある想像したもの」なのだから、「想像の中にある具体的なもの」というのは矛盾であり、論理(ことばの運動)を否定してしまうものだから、意識は無意識的にそれを遠ざける。つまり「省略」することで論理(ことば)を動かす。これは、ことばの運動にとっての「必然(絶対)」なのであるが、それを最果は無意識的に意識している。

 ここから最果の詩がなぜ若い人に人気があるかを考えていくことができると思う。
 たとえば「恋人」というのは「超個人的」なものである。自分の「肉体」を超える「絶対的な他者」、抽象化できない存在(具体でしかありえない存在)なのだが、そういう「絶対的存在」さえも「抽象」として把握することが、たぶん、現代の若者の「感覚」に合致しているのだろう。
 なぜ「超個人」を抽象化するか。「超個人」に触れることは、結局自分が自分でなくなる可能性(危険性)を生きることだが、つまり自分自身が「超自分」になることなのだが、この「超自分」を引き受ける覚悟が、たぶん若い世代にはないのだ。
 これは自分を傷つけることを恐れる、と言い直すことができるだろう。生きるというのは、はてしなく傷つきながら、その傷をなおすことで生まれ変わり続けることなのだが、こういうことを「具体的」に体験したくない、できるかぎり「抽象」にしておいて、自分の「肉体(思想)」を守る、という意識が若い人には強いのだと思う。

愛することで解決するんだろうか
誰かを愛することで解決するんだろうか、だとしたら今
のぼくの頭の中の方が、ずっと幻で、ぼくのいやしない
恋人よりもずっと幻で、ぼくは、人を失いたい自然界の、
見る夢みたいじゃないか。

 「愛することで解決する」と私は言ってしまいたいけれど、それは若い人には通じないだろう。愛するということは「超自分」になることだから、その瞬間にすべては解決しているのだが、それは同時に「解き得ない問題」のはじまりという解決だから、まあ、納得してもらえるはずがない。
 で、そういうことは考えずに、また「具体(的)」を最果のことばのなかに補ってみる。「具体」はこの二連目では「解決」ということばに、「抽象(このことばは書かれていないが)」は「幻」ということばになっているが、言い換えずに補うと、こうなる。

誰かを愛することで「具体的に」解決するんだろうか、
だとしたら「いない恋人の方が具体的であり」
今のぼくの頭の中の方が、ずっと幻(抽象=非現実的=非具体)で、
ぼくのいやしない恋人よりもずっと幻(抽象=非現実的=非具体)で、
ぼくは、「具体的な」人を失いたい自然界の、見る夢(幻=抽象=非現実的=非具体)みたいじゃないか。

 こう補ってみるとわかるのだが、どんな「幻、抽象、非現実、非具体」も、「具体的」なことばでしかあらわすことができない。ここにとんでもない「矛盾」があるのだが、その矛盾をどういう視点から捉えなおすか。
 最果は、これまで「具体的」ということばを省略するという形で乗り越えてきた。「具体的」なことばを実際につかっても、それを「具体(的)」と呼ばないかぎり、ことば(抽象、幻、夢)と弁明できた。つまり、これは「詩」であって、現実ではない、あるいは「具体的な私」ではないと言い張ることができた。
 この詩では「ぼく」という一人称がつかわれているが、それはあくまで「ぼく」であって最果自身ではない。「ことばとしての最果」の仮称に過ぎない。そう言い張ることができた。
 いまの若い人たちは、この「ことばとしての私」という仮称のなかで生き延びようとしているように、私には見える。いつも、全員が、というわけではないが、そう感じられることがある。そういう若い人にとって、最果のことばは、確かにひとつの「夢の輝き」を発しているように感じられる。

「具体的な」ぼくは
ぼくが「具体的な」恋人を得るまで、
「具体的な」人間というものを自然の景色のひとつとして捉えられない気がしている

「具体的な」ぼくは
ぼくが「具体的な」恋人を得るまで、
「具体的なぼく」というものを自然の景色のひとつとして捉えられない気がしている

 「人間」という「他者」をではなく、「ぼく」という存在そのものを「具体的」に捉えることができない、「自然の景色(世界)」の「ひとつ(具体的存在)」として捉えることができない、という気がしている、と私は「誤読」するのだ。
 この「ぼく」の稀薄さ(具体性の欠如、抽象化された概念)は、繰り返しになってしまうが「愛することで解決する」と私は思っているけれど、こういう考えは、もう古いかもしれない。
 私の「誤読」が、最果と最果の読者に届くとは思えないが、届かないと思っていても、私は書くのである。書くことで、私は「きのうのことばの私」を超える。こういうことは、他人にとっては何の意味もないことだが、なぜ私が書いているかというと、そういうことなのである。







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