詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

考えない菅(その2)

2020-12-11 17:32:16 | 自民党憲法改正草案を読む
菅首相は11日、インターネット番組に出演し、観光支援策「Go To トラベル」事業の一時停止について「考えていない」と述べた。
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「考えていない」というよりも、菅の場合は「考える」ということができないのではないか。
何も「考えない」。
ただ「思いつく」。そして、ただそれを実行する。
問題は。
コロナウィルスは官僚ではない、人間ではないから、菅にかわって「考える」ということをしてくれない。
左遷がこわくて、菅のつごうにあわせて「論理(ことば)」を考えるのは官僚だけ。
コロナウィルスはただひとにくっついて生き延びる。
お盆の帰省をあきらめたひとは、せめて正月くらいは帰省ができるだろうと思っていたのではないだろうか。
年末年始の医療機関の「休日」はお盆期間よりも長い。
感染拡大がつづくと、その受け入れ機関はどうなるのだろうか。
この問題を「考える」のは、いったい誰なのか。
「考える」ことをすべて国民に「まる投げ」している。
あまりに無責任だ。
読売新聞も読売新聞。
「考えていない」ということばを聞き出すだけではなく、「では、何を考えているのか」と質問して、菅の「考えている」ことを書かないといけない。
「考えていない」はひとことでおしまい。
「考えている」ことを語るには、多くのことばがいる。
「ことば」をつたえるのがジャーナリズムの仕事であるはずだ。
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「考えない」菅(その1)

2020-12-11 17:31:35 | 自民党憲法改正草案を読む
菅の「ことば」の特徴は、いつも「結論(答え)」だけがあり、「経過」がないということ。つまり「論理」がない。
官房長官のときは、すでに他人(安倍)が「答え」を出していた。記者会見ではその「答え」に対して質問が出るだけだから「問題ありません(安倍の結論が正解です)」でつっぱねることができた。
しかし、今度は自分で「答え」を出さないといけない。「答え」を出すためには、問題をどう解釈し、そこからどう論理を組み立てていくかということが求められる。その論理を組み立てた経験がない。
この論理を組み立てた経験がないということは、別のいい方をすれば、論理を組み立てることができないであるだけではなく、論理を組み立てることが嫌い(論理を前面に出してくるひとは嫌い)につながる。
これは、学術会議問題にあてはめると、そのまま菅の「生き方」として理解できる。
菅は、「論理を組み立て、その論理のあり方」を問題にする「学術会議(学者の方法)」が大嫌いなのだ。
「経過」を説明し、その「経過」の正しさで他人を説得するということが大嫌いなのだ。
そういう訓練をしていないのだ。
「goto」も経済を動かすという「結論」だけしかない。どういういときに「goto」をすれば経済が動くか、国民の健康と両立できるかという「論理的根拠」がない。
「事実」を分析し、それを抽象化し、理論にしていく。そのあと「答え」を仮説として提示する。さらに、その「仮説(答え)」が正しかったかどうか、「実証」の「結果」と照らし合わせて、ほんとうに「答え(結論)」が正しいかどうか見直すという方法が確立されていない。
「答え(結論)」のために、それ以前の「論理」を作り替えてしまうという安倍の手法が、「論理」を作り替えることのデイない「現実(コロナ感染)」の前で破綻したとき、どうしていいかわからなくなっている。
コロナウィルスは「官僚」ではないから、「論理(感染経路や感染拡大の数字)」、「結論(gotoが正しい)」にあわせて説明してくれない。
コロナウィルスは「官僚」ではない(方針に反対なら「異動させる」)という具合に行かないのだ。
官僚が「しりぬぐい」をしてくれない問題に直面したとき、菅には何もできないのである。
安倍にしてもおなじである。
そういうい意味では、菅は安倍を「継承」している。
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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(106)

2020-12-11 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (たしかにぼくは過ぎ去つていつた)

ふりかえると
それぞれがあまりに遠い

 「それぞれ」と複数なのが興味深い。
 「ぼく」と「ひとり」であって「ひとり」ではない。それぞれのときと場所によって、そのときと場所の「ぼく」というものが存在する。
 そして、それが複数であるからこそ「たしかに」ということばも必要なのだ。
 「たしかに」は漢字で書き直せば「確かに」。「確認」なのである。
 そして、その「確認」は「過ぎ去る」という動詞に焦点を当てているのではなく、そこには一行目には書かれていない「それぞれ」に焦点が当たっている。そのとき、その場所で、それぞれの「ぼく」があらわれ、過ぎ去る。それは「消えていく」。いなくなる。
 あいまいな認識が、ことばを書くことで「たしかな」ものとなってあらわれてくる。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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