詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

セルゲイ・ロズニツァ監督「国葬」(★★★)

2020-12-28 10:23:59 | 映画
セルゲイ・ロズニツァ監督「国葬」(★★★)(2020年12月26日、KBCシネマ2)

監督 セルゲイ・ロズニツァ

 スターリンの国葬のドキュメンタリーだが、なんとも不気味である。スターリンが脳溢血(?)で倒れてから死ぬまでの経過を国営放送が克明に語る。医学用語をつかった病状報告が克明すぎるのである。こんなことを知らせてどうなるんだろう、と思う。そして、こんなことが放送されるのは、他につたえることがないからではないか、と思う。あるいは、放送したこと(内容)が問題になり、「粛清」されてはたまらない、だから「科学的(医学的)事実」だけをつたえようというのか。
 その一方、続々と国葬のために集まってくるひとたちの声はひとことも聞こえない。共産党の役職者や労組(?)の代表は追悼のことばを発表するが、国民はみな無言である。そして、その無言の顔がこれでもかこれでもかというくらいに映し出されるのだが、この膨大な顔を見ても、「声」が聞こえない。想像できない。悲しんでいるのか、ほっとしているのか、見当がつかない。涙を拭いている人もいるが、その涙の意味がわからない。ほんとうに追悼の気持ちがあって涙が流れたのか、涙を流しておいた方がいいと判断したのか。
 大勢の人が集まっているが、その人と人を結びつけるものがさっぱりわからない。
 これがテーマであり、これが監督の言いたいことかもしれない。スターリンが死んだとき、国葬がおこなわれたが、その国葬に対して国民が何を考えていたか、それはそのとき語ることができなかった。国民は「声」を奪われていた。ただ、無言で、つまり権力に対していっさいの批判をせずに生きることを強いられていた。それはスターリンが死んだからといって一気に解決することではない。
 自分を抑圧しているものに対してどう戦うか。それを知らないのだ。そして、その「知らない」というか、「ほかのことを考えさせない」ために、たとえば「放送(ジャーナリズム)」がある。「ことば」の統制がある。冒頭のスターリンの死を告げる放送が、とても特徴的なのだ。
 私は最初何を言っているのか、さっぱり理解できなかったが、この理解できないは「感情移入ができない」である。つまりスターリンの死を告げる放送は、「理解できない事実」というよりも「理解する必要のない事実」だけを語る。感情移入による「共感」、感情の「連帯」が生まれないことば語り続けることで、「感情」の共有、「感情」による「連帯」を遠ざけている。「悲しみ」さえ、共有させないのだ。「国葬」で「悲しみ」を共有している国民はいないのだ。これは考えようによっては(考えなくても)、ひじょうに残酷なことである。しかし、そういう残酷を産み出してしまう、ものを考えないためのことばの統制がソ連ではおこなわれていたのではないのか。
 流通することばは、自分自身の「暮らし」とは無関係である。しかし、それを聞かないといけない。そんなことは私には関係がないと言えない。そんなことは聞きたくはないとも言えない。
 それが、そのまま「国葬」のとき、「現実」としてあらわれてくる。スターリンが埋葬された廟へいつたどりつけるかわからない。それでもその前まで行って追悼しないと、きっと追悼しなかったことを問い詰められる。反論することばがない。「悲しみ」も共有できないが、「反論(怒り/その反動としての喜び)」も共有できない。だから、群集のなかにかくれて自分自身を守る。群集の中で「個人」を守る。生き抜く。言いたいことを言わない。言いたいことが言えないという苦しさが、言いたいことを言わないと決めた瞬間から、すこし苦しくなくなる。こうしいてれば生きていける。そのほんの少しの安心を求めて、さらに無言がつづいていく。
 ここから国民がことばを取り戻すために、どれくらいの時間がかかるのか。スターリン批判はたしかにあったが、それはどのような形で生まれてきたか。ほんとうに国民の声として「暮らし」のなかから生まれてきたのか、それとも共産党の内部で生まれてきただけなのか。どちらにしろ、「批判」がことばになり、それが「行動」になるまでには時間がかかる。
 これは……。
 スターリン独裁下だけの問題ではない。独裁があるところ、かならず起きることだ。一度独裁が確立されたら、そこから国民がことばを取り戻すためには長い時間がかかる。ことばを守ることが独裁を防ぐ方法であるということを、逆説的に語ることになるだろう。
 どこまでもつづく無言の顔。それを見る必要はある。この無言の顔に対して、私はいろいろ書いたが、そのことばが彼らの無言には届かないとも思う。あの膨大な無言の顔にきちんと向き合えることばがいったいどこにあるのか、想像もつかない。ただ、「無言」にはなりたくない、とだけ思う。








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コメント
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「詭弁」にさえなっていない「駄弁」。

2020-12-28 08:05:03 | 自民党憲法改正草案を読む
jiji.comが「自民党の二階幹事長、大人数会食批判に反論」という見出しで記事を配信している。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020122700276&g=pol&fbclid=IwAR0aG--d9GL4noT9Yt9BpINYj1rmZbGapkfJ13kYagWzlvh_GAGjeZ1607U

「会食を目的にやっていない。意見交換を考えてやっている。全く無駄なことをしているわけではない」

↑↑↑↑

意見交換が主目的なら、会議室を借りてやればいい。
食事の提供が必要なら、個別に「テイクアウト形式」で料理を配り、各自が個別に食べるということもできる。
多くの人が批判しているのは「無駄なことをしている」ではなく、政府が「多人数での会食自粛」を打ち出しておいて、みずからそれを破っていること。指針と行動との矛盾を批判している。
さらに、意見交換を「考えて」やっている、とはどういうことなのか。「考えて」いれば、意見交換をしなくてもいいのか。いったい、どんな「意見交換」をしたのか。「〇〇〇について意見交換した。〇〇〇という意見が出た」という具体的なことを言わない限り(言えない限り)、「意見交換」したとは言えない。
二階の表現を借りれば、国民がこういうこともできる。
「意見交換を考えて100人が集まり、飲食もした。飲食が目的ではなく、意見交換が目的だったから、みんなが大声で話し合った。要約ができないくらい多様な意見が飛び交い、予定の1時間では足りずに徹夜で激論を展開した。活気に満ちた意見交換会だった。1年を振り返り、新しい年を迎えるたその貴重な意見交歓会だった。」
そういう「論理」で、いいのか。
「論理」さえ、整合性がとれていればいいのか。
「論理」はことばだげで成り立っているのではなく、「事実」と「ことば」の関係を証明しないといけない。
二階はいったい「意見交換会」で出席者から、具体的にどういう「貴重な意見」を聞いたのか、それを政策にどう反映していくのか。それをきちんと説明しない限りは、「無駄な会食会」を通り越し、「危険な会食会」になる。
政府が多人数での会食を自粛するように求めたのは、それが「無駄」ではなく「危険」だからだ。
「危険」を上回る「貴重な意見」が交換されなかったなら、それはそれこそ完全に「無駄」になる。「危険+無駄」が二階のやった会食会である。
ジャーナリズムは単にだれそれがどういうことをした、どう言ったかを伝えるだけではなく、その行動、言論の「意味」を正確に分析し、言語化する責任をになうべきである。

*

こういうニュースもある。産経新聞である。
「安倍首相、二階幹事長や王貞治氏らと会食」
https://www.sankei.com/.../news/200722/plt2007220039-n1.html

安倍晋三首相は22日夜、東京・銀座のステーキ店で、自民党の二階俊博幹事長やプロ野球ソフトバンクホークス球団会長の王貞治氏らと会食した。少年野球の振興事業などを通じて王氏と親交の深い二階氏が呼び掛けた。王氏は東京五輪・パラリンピック組織委員会の理事を務めており、来年夏に延期となった東京五輪などについて意見交換したとみられる。

↑↑↑↑

これは、二階の言う「意見交換」説を補強するためのものだろうが、安倍まで出席したのか、というのが私の驚き。
さらに。
すでに書いたが、gotoとオリンピックは密接に連携している。
gotoで旅館・ホテルを維持しないと、オリンピックを開いても観光客の宿泊先がないということがおきかねない。それを心配して、旅館・ホテルの維持に懸命なのである。
しかも、その維持のための予算をなるべく抑え込むための方法が、国民の旅行なのだ。旅行する国民は恩恵を受けるが、同時に旅館・ホテルを直接支援しないですむ国も恩恵(?)を受ける。
旅館・ホテルだけに「休業補助金」を出すと、他の中小企業から不公平だという声がおきるだろうからね。
しかし、gotoそのものだって、不公平なのだ。
利用することができる国民も富裕層にかぎられている。
コメント
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