詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ『夜景座生まれ』(3)

2020-12-14 09:53:25 | 詩集


最果タヒ『夜景座生まれ』(3)(新潮社、2020年11月25日発行)

 62ページから最後まで読んだ。思いついたことを思いついたままに書いていく。
 「海み」という作品。「うみ・み」ではなく「うみ」と読ませるのだと思う。

血の中を泳いでいた、海よりもずっと海だった、海なんかよりずっと果てがな
かった、私の体はこの血がなくなる場所まで続いているとも思えてならなくて、
泳いでいるのに一歩も、動けていないと感じていた、生まれると産むは、どう
いう関係なのだろうか、生まれる人間にとって、産む行為は関係あるようでな
いのではないか、

 「海よりもずっと海だった」、「海」を超える「海」が「海み」と書かせているのかもしれない。何か超越したもの、はみだすものを含んでいる。
 「関係」ということばが二度出てくる。これは「具体的」というこばのように、私の「肉体」に少しひっかかってくる。最果の詩によく出てくるのか、それとも出てこないのか、私はちょっと気になるのだが「具体的」ということばに出会ったときほどは驚きがない。「具体的」で驚きすぎて感覚がにぶっているのかもしれない。慣れてきた、ということかもしれない。
 この「生まれる/産む」のなかには「うむ」ということばが重なり、ずれている。それが「海み」という「ずれ」のようなものと思う。
 ちょっともどかしさを感じながら読み進んで行って、こんなことばに出会う。

血には痛点がない、いつも肉の方が痛い、

 私はこういうことを考えたことがないので、非常に驚いた。そして、これは、先に出てきた「関係」ということばをつかわずに、「生まれる/産む」ということばを、女の「肉体」をくぐりながら、こう続いているのである。

    かなりの生理痛。血の痛みではない痛み、血には痛点がない、いつも
肉の方が痛い、わたしはでも血のことを考える、血のように無痛の中にいたい
と思う、無痛の中で流されていく中にいたいと思う、血の中から生まれるとき、
血はわたしの方を見ていただろう、自分の一部であるはずのものが、生まれよ
うとするのはどんな感覚だろうか、血でなくなった途端に痛くて仕方がなくな
るよ。それは見送るんだから。かわいそうでならないよ。

 「考える」「思う」「感覚(感じる?)」とことばが動き、「見送る」という動詞を誘い出し、「かわいそう」に変わる。これが「生まれる/産む」。「血の中から生まれる」のを血は「産む」という立場で「見ていた」(見ている)。「見られる/見る」が「生まれる/産む」であり、「産む」方からは「生まれる」は「かわいそう」に感じられる。
 ここに書かれている「正直」は、「生理(痛)」というものを体験したことのない私には、まったく何も言うことがない。ただ、受け止めるしかない。「生理(痛)」というものについて、私は女性と話し合ったこともないので、どう感じていいかわからない。私の知らないことが私の知らないことばの動きとして書かれているので、そこに「正直」があると受け止めるだけである。
 ただ「血には痛点がない、いつも肉の方が痛い、」ということは、たとえば、手を切ったりして血を流した経験から、そうだなあ、と驚かされる。女は生理のとき、こんなふうに肉と血を見ているのか、と驚かされる。「痛点」というもの、非常に不思議なことばで、私自身が血を流したときの体験から言えば「痛点」ということばは思いつかない。「痛み」でしかない。
 「痛み」ではなく「痛点」と呼ぶところにも、「関係」というものが隠れていると思う。「点」によって血と肉がつながっている。「痛点」の「点」は血と肉体の「接点」の「点」なのである。それは「関係」によって初めてあらわれてくるものであって、「痛み」とは違う。「痛み」は「点」ではなく「量」というと変だが、もっと大きなものである。
 脱線したか。
 この詩にはまた、

肉体がなくても、命は不気味だし生臭い。

 という強烈な行がある。
 そういうことばを読み通すと「海み」は「いたみ」と読みたい衝動に襲われる。
 この詩は、私から見ると、あまりにも女の「正直」が出ているので、私が最果のことばにどれだけついていけているのか、わからない。
 だから、ここで感想を中断しておく。
 「静寂の詩」には、美しい二行がある。

美しい花が見えて、ぼくはいま、
何かから目をそらしたんだと気づいた。

 何かを見ることは、何かを見ないこと。それを「目をそらす」という動詞、その動きとして「関係」づけている。
 そんなことを思いながら読み進んで、「激愛」という詩に出会う。

彼女とわたしはいくつかの炎が自分たちのせいで制御不能に陥ったことを
知っていたが黙っていた、火をつけることは一度もできなかったが、燃料
ならいくらでも注いだ、この関係性に名前はつけられないけれど、誰も三
人目になろうとしないからこの世界はまだ未熟だ。

 「関係性」。このことばに、私はまた「傍線」を引いた。「関係」ではなく「関係性」。これは、「具体的」と同じように、私には「はじめてみることば」のように感じられる。非常に、異質な何かがある。
 「関係」ということば自体は、この詩にはもう一度出てくる。

          愛することの凶悪さに飲まれてどれだけの人が死ん
でいったのか、わからないけれど私たちはこの関係以外に何もない、

 この「関係」ならば、「読んだ」という感じがする。「海み」のなかの血と肉も「関係」である。「痛点」を「接点」とする「関係」と仮に呼ぶことができる。その呼び方が正しいかどうかは別にして。
 「関係性に名前はつけられない」ということばを頼りに言い直せば、血と肉の「関係」は「接点(を持っている)」ということであり、その「関係」に名前があるとすれば、それは「(痛)点」である。
 ここから私は逆に考え始めるのである。
 「海み」に書かれていたのは「関係」ではなく、実は「関係性」だったのだ。「痛点」は確かに「名前」であり、そこに最果の書きたいことは結晶している。しかし、書きたいことは結晶のようなものではない。「結論」ではない。そういう結晶(結論、到達点)ではなく、そこへ行くまでの、だれも通ったことのないことばの「道」。
 「痛点」と書いた後、その結晶を覆い隠すかのように動いていることば。

    かなりの生理痛。血の痛みではない痛み、血には痛点がない、いつも
肉の方が痛い、わたしはでも血のことを考える、血のように無痛の中にいたい
と思う、無痛の中で流されていく中にいたいと思う、血の中から生まれるとき、
血はわたしの方を見ていただろう、自分の一部であるはずのものが、生まれよ
うとするのはどんな感覚だろうか、血でなくなった途端に痛くて仕方がなくな
るよ。それは見送るんだから。かわいそうでならないよ。

 このことばは、ほんとうはまだまだ続いている。それは、ある意味では「ずるずる」している。切実なことばなのだけれど、「不気味だし生臭い」。つまり「結晶(結論)」からはほど遠い。そこには「関係」というはっきりしたものではなく、「関係性」がひしめいてる。関係「性」そのものを、最果は「海み」で書いていることになる。
 思想(肉体)というのは、いつでも結論ではなく、私は、その「過程」で動いているものだと思う。「性(交)」がいつも動きとして存在するように、あるいは「性」は動くことで明確になるように、思想(ことば)は「関係」をめぐって、まさぐりあうとき(性交するとき)、そこに具体的な姿をあらわすのだと思った。
 「関係」を「具体的」に書き直したものが「関係性」であり、その「性」には必然的に「肉体」がからんでくる。ことばは、どうしてもそのひと個人の「肉体」を通って動くしかない。「絶対的個人」をくぐりぬけることで、ことば(詩)は、そのひと固有のことばになり、思想になる。「ことばの肉体」が確立される。

 わかったような、わからないようなことをだらだら書いてきたが、(たぶん何もわかっていないが、何かを考えようとしたことだけは確かだが)、「具体的」ということばと「関係性」ということばに出会ったことは、私にとっては、とても大きな収穫だった。
 最果は、いわゆる現代思想のことばを借用してことばを動かしている詩人よりもはるかに「正直」に肉体と向き合い、思想と向き合っていると思う。






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