詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「最近知った」が特ダネ?

2020-12-23 15:49:15 | 自民党憲法改正草案を読む
「最近知った」が特ダネ?(情報の読み方)

 2020年12月23日の読売新聞(西部版・14版)35面(社会面)。「桜」前夜祭の続報。(番号は、私がつけた。記事の順序は番号どおりではない。また、一部は括弧で私がことばを補った。)

安倍前首相「補填、最近知った」/「桜」前夜祭 任意聴取で説明

①安倍晋三前首相(66)側が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡り、東京地検特捜部が安倍氏から任意で事情を聞き、安倍氏が前夜祭費用の補填などについて「最近になって知らされた」と説明したことが関係者の話でわかった。
②特捜部は、安倍氏が首相当時、実態を知らないまま、「補填の事実はない」などと国会で答弁していた可能性が高いとみている。

 デジタル版(ネット)には「独自」(特ダネ)の印がついていた。どこが「特ダネ」なのか、私にはよくわからないが。
 見出しにとっている「補填、最近知った」と説明したということが「特ダネ」なのだろうか。
 この部分は、本記では、こう補足されている。

③安倍氏も特捜部の聴取に答弁の経緯を説明。補填の実態を知ったのは首相辞任後の11月後半だとした上で、「不正には関わっていない」などと述べたという。
 
 この「11月後半」とは具体的には、いつか。
 2020年11月23日の読売新聞は、「桜を見る会前夜祭」問題で、東京地検が安倍の秘書を聴取したというニュースを「特ダネ」で報じている。
 読売新聞が報道するまで、あるいは秘書が東京地検に聴取されままで(聴取されたと安倍に報告するまで)補填の事実を知らなかった、ということだろうか。
 「論理的」には、それで辻褄が合う。

④こうした答弁(「補填の事実はない」)をした理由について、安倍氏周辺は先月の取材に対し、安倍氏から昨年末、国会答弁に際して補填の有無を確認された際、事務所担当者が「支出していない」とウソをついたためだと話していた。

 この辻褄合わせを、読売新聞は、ごていねいに「先月の取材」をもとに「正しい」と細くしている。安倍は、長い間、補填の事実を知らなかった。補填については、担当者が「支出していない」と嘘をついていたので、安倍には知りようがなかった、と。
 この読売新聞の「論理補強」には非常に問題がある。
 もし、それが「事実」だとして、なぜ、安倍は秘書が言っていることをそのまま信じたのか。別ないい方をすると、「真実」を知るために、安倍がいったいどんな「努力」をしたのかがわからない。「知らなかった(だまされた)」ということばが有効なのは、さまざまな方法で事実確認をしてきたが、事実が巧妙に隠されていたからであるというときだけである。
 国会では、たしか「ホテル側の領収書を提示しろ」というようなことが何度も言われたはずである。ホテル側の領収書や見積書を調べれば、費用がいくらかかったかということが即座にわかり、金の動きが明確になったはずである。安倍は、自分が疑われているのに、そういう「潔癖証明」を一度もしてこなかった。「知らなかった」のではなく、「知ろうとしなかった」あり、それは事実を書くそうとすることでもある。
 隠そうとし続けてきたが、隠しきれなくなったために「知らなかった」と言っているだけである。
 それで、突然、「11月後半」になって知った、という。
 それを補足することを「11月後半」に、秘書が読売新聞に語ったのだとしたら、それは単純に考えて、安倍と秘書が口裏を合わせて読売新聞をだましているということだろう。可能性だけれどね。ことばをあつかう仕事をしているのなら、どうしたって、そういうこと疑ってかかるべきだろう。
 読売新聞は、そういう「だまされているかもしれないこと」を根拠に、逆に、安倍は正しいことを言っていると主張している。
 その部分が、繰り返しになるが、
 
④こうした答弁(「補填の事実はない」)をした理由について、安倍氏周辺は先月の取材に対し、安倍氏から昨年末、国会答弁に際して補填の有無を確認された際、事務所担当者が「支出していない」とウソをついたためだと話していた。

 である。
 ④を報道するとき、読売新聞は「裏付け」取材をしたのか。簡単に言い直せば、そのとき安倍本人にも取材したのか。秘書は「支出していないとウソをついた」と言っているが、安倍自身はそのことを知っているか。知っているとすれば、いつ知らされたのか、を安倍から確認したのか。
 もしそのとき確認していれば、あれから1か月たったいま、

「補填、最近知った」

 ということばを「特ダネ」として報道するのではなく、あのとき、その段階で、一緒に報道できただろう。その方が、「安倍は無実(安倍は何も知らなかった)」を「衝撃的事実」として報道できたはずである。その方が「安倍弁護」としても有効だったはずである。ところが、読売新聞の記者は、そこまでは頭がまわらないというか、頭をまわそうとしない。ここに、読売新聞の「正直」が強烈に出ている。
 11月下旬に、読売新聞が「取材する」ことで確認できたはずのことをいままで取材せず、いまごろになって安倍自身を取材するのではなく「関係者の話でわかった①」と書いている。リークされたことを、リークされたままに、何の手もくわえないという「正直」きわまりない方法であるが……。
 こんな「ずぼら」な取材があっていいのだろうか。
 「特ダネ」があるとしたら、読売新聞は11月の取材で安倍から「補填、最近知った」ということばを引き出せたはずなのに、それをしなかった、ということだろう。
 なぜ、11月下旬に安倍を取材し、安倍のことばを引き出さなかったのか。11月の「特ダネ」はいったいなんだったのか。

 さて。
 もう一度「特ダネ」に戻ろう。前文に書いてあった、

②特捜部は、安倍氏が首相当時、実態を知らないまま、「補填の事実はない」などと国会で答弁していた可能性が高いとみている。

 これが「特ダネ」だと読売新聞はいいたいのかもしれない。安倍は実態を知らなかったと特捜部は「みている」「可能性が高い」。言い直すと、特捜部は安倍の責任は問えないと見ている、つまり不起訴であるといいたいのだろう。
 「不起訴(見通し)」については、いろいろなことろで批判の声が出ている。そういう声に対する「反論(安倍は正しい/特捜部の判断は正しい)」と主張するための記事だといえる。
 でもねえ。
 そんなことは新聞社がすることではない。
 なぜ、安倍は「最近」まで「補填」を知らなかったのか。「補填」を知らない、ということは、事務所の金の不正な動きもぜんぜん知らなかったということになる。安倍だけではなく、周辺の人も金の動きに対して何の不信も持たなかったということになる。そんなことは、ほんとうにありうるのか。政治資金規正法が関係してくるのに、みんな無頓着だったといことがありうるのか。
 リークされたことをリークされたまま「特ダネ」として書くのではなく、「安倍周辺」を自分で取材して「特ダネ」を探すべきではないのか。



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石松佳『針葉樹林』

2020-12-23 11:18:41 | 詩集


石松佳『針葉樹林』(思潮社、2020年11月30日発行)

 石松佳『針葉樹林』は、「第57回現代詩手帖賞」受賞者の詩集。投稿欄で読んでいるときは違和感はなかったのだが、一冊の詩集になってみると気になることがある。
 「絵の中の美濃吉」。

井戸が目眩をした朝があった。美濃吉は昔から人間より
も事物とこころを通わせていたので、すぐに桔梗を一輪
摘んで、その闇に投げ落とした。闇からは美濃吉を呼ぶ
声が絶えなかった。美濃吉はほほえんで、遠くの山々に
向かって一礼をした。彼は生まれつき音が聞こえなかっ
たのである。

 「絵の中の美濃吉」とあるから、絵を見て、「物語」を感じ、それをことばにしているのかもしれない。
 そう考えた上でも、私には、疑問に思うことがある。
 石松は「井戸」を見たことがあるのか。「井戸」をのぞいたことがあるのか。「桔梗」でなくてもいいが、花でなくてもいいが、何かを「井戸の闇」に投げ込んだことがあるのか。
 どうも、私には、そう感じられない。
 「いま/ここ」が感じられないからである。
 もちろん詩が「いま/ここ」を書かなければならないというわけではないが、「いま/ここ」とはあまりに遠い世界に、私はつまずいてしまう。
 ここでは「ことば」が「存在」ではなく、遠いことばと対話しているとしか感じられない。それは何もかもが「描写されたもの」であって、「生身の肉体(存在)」ではないという感じがしてましまう。
 この作品の場合「絵の中の美濃吉」なのだから、「生身」である必要はないのかもしれないが、それでも「絵」と石松を結びつける「絶対的な肉体」というものがどこかにあってほしいなあ、と思う。

完璧な月が出たある晩、美濃吉は月明かりの中でまたあ
の馬を見た。馬の背中は喪失的にうつくしい作文だっ
た。沼に立ち尽くす馬は暗く燃え、やがて皮膚の上には
雪が結晶する。その景は明らかに厳しい冬の到来を伝え
ていたので、夜風に靡いた草は妹のように泣いた。

 ここには「妹」ということばが出てくるのだが、この「妹」さえ、私には「文学の中の妹」(ことばになってしまった妹)に感じられる。石松に「妹」はいないのではないか。実際に「妹」がいて、それでいてなおかつ、「ことばになってしまった妹」をもちこんでいるのだとすれば、それはそれで一つの「力業」なんだろうけれど。
 もうひとつの「肉体」としての「馬」。これは、登場した途端に「喪失的にうつくしい作文」という「ことば」でしか存在し得ない「形式」に閉じこめられ、「暗く燃え」(燃えているのに明るくはない!)を経て、燃えているのに「皮膚の上には雪が結晶する」という「ことば」でしか成立しない「世界」を出現させる。
 それらが「ことばでしかない」存在だから、「妹」が「ことば」になってしまうのかもしれない。
 一貫しているという意味では「技術」が完成しているということになる。それはそれでとてもおもしろいことで、現代詩は再び荒川洋治の時代に入ったのかもしれない。
 でも、何か、違和感を覚える。
 「美濃吉」が「人間よりも事物とこころを通わせていた」ということばを借りて言えば、石松は「人間よりも確立されたことば(表現)とこころを通わせていた」ということになるのかも。「事物」のかわりに「確立されたことば」。
 なんだか「古今/新古今」、あるいは「新感覚派」という「昔」のことばが現れてきそうな気がするなあ。
 「田園」には、こんなことばがある。

わたしは今まで、軽やかな田園というものを見たことが
なかった。胸に広がる水紋は、どれもひとしく苦しい。
微笑のような日々を、すやすやと送ること。遠くの橋梁
を見るときに聴こえるささやかな斉唱の。透けた布切れ。

 ここでも私は思うのだ。石松は「田園」をほんとうに見たのか。「水紋」をみたのか。「井戸」や「桔梗」や「馬」と同じように、「完成されたことば」を読んできただけなのではないのか。
 「軽やか」と「胸に広がる」は通い合う。「胸に広がる」と「ひとしく苦しい」も通い合う。しかし、「軽やか」と「ひとしく苦しい」は対立する。「軽やか」「胸に広がる」と「微笑」「すやすや」「斉唱」「透けた」も通い合う。しかし、この詩の中でいちばん魅力的な「ひとしく苦しい」は対立する。「どれも」と強調されているだけに、よけいに「対立」を感じる。
 もちろん、これは、そういうことを承知で「どれもひとしく苦しい」ということばのために用意された「舞台(書き割り)」と受け止めればいいのかもしれないけれど。
 でも、そうすると、なんだか、文学的な、あまりに文学的な、という感じ。

                「おはようございま
す。」そして大声でお礼を言われて、顔を上げたら、f
が対岸の選挙カーに向かって手を振っていた。

 というような、あまりにも「現在的」な感じのことばが浮いて見える。
 でも、これは私の感じ方がおかしくて、いま引用した選挙カーのことばなどこそが、石松の「いま/ここ」の「書き割り」なのかもしれない。








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