(新潮社、2020年11月25日発行)
最果タヒ『夜景座生まれ』の31ページから61ページまで読んだ。61ページは空白なので60ページといった方が正しいのかもしれないけれど。書いてみたいことがふたつある。
まず「5月」という作品。
ハサミで切断された髪の束は一瞬だけ、花束だった、
床に落ちる数秒前まで、花束だった、ぼくはそれを
見ていた気がする、いちごの匂いがした気がして、
でもどこからなのか結局わからなかったあの日から、
ぼくの少年期は終わり、あなたが新たに病院で生ま
れていた、ぼくは記憶の中にある、背の高い石垣に
もう戻ることができない、腰掛けることすら容易な
その場所を、見上げていたぼくの手にはアイスクリ
ームが少しついていて、甘い匂いがしていた、
ことばは、まだつづく。そのことばは、読点だけでつづいている。句点は詩の終わりに一回だけ出てくる。引用はここまでにしておく。
詩を読みながら、私は「ぼくは記憶の中にある」ということばに、私は思わず傍線を引いた。きのう書いた「具体的」ということばのように、そのことばだけが詩全体の中から飛び出してきているように感じたのだ。
「ぼくは記憶の中にある」は前後を読点で挟まれている。そのことばは前のことばにつづいていると読むこともできるし、後のことばにつづいていると読むこともできる。さらには、それ自体で独立しているように見える。
この意識的時間の流れの、行きつ戻りつを含んだ動きは書き出しの「髪の束=花束」にも、すでに書かれている。切断される前に花束だったのか。切断されて床に落ちたとき、一瞬花束に変わったのか。どう読むか悩んでいると「床に落ちる数秒前まで」ということばが追加され、切断されて、床に落ちるまで、空間に浮かんでいる一瞬のことを書いているのだとわかる。しかし、「ぼくはそれを見ていた気がする」ということばがそれを呑み込んでいくとき、いったい「髪の束=花束」という「一瞬」はいつのことかよくわからなくなる。わかるのは、それが「気がする」ということだけだ。そこにあるのは「気」だけである。「気持ち」か「気分」かわからないが、「もの」ではなく「もの(具体物)」をつかまえようとする「意識」だけがある。だいたい「髪の束」は「もの(実在)」だが「花束」は比喩であり、実物(もの)ではないから、そもそも存在しているのは、「髪の束」を「花束」と呼ぶ意識だけなのである。ことばの運動だけなのである。
それを「気」と呼ぶ。「気」は、しかし、「いま」しか存在しない。不安定な、つねに動いてしまうものである。これを最果は「記憶」に変えていこうとしている。「気がする」「気がして」は、こう言い換えることができる。
ぼく(に)はそれを見ていた「記憶がある」、いちごの匂いがした「記憶がある」
「記憶」は「記録」に通じる。いまり「記す」ということが含まれる。「気持ち/気分」は「記録」される(ことばにされる)ことで、「記憶」にかわる。そして、「記憶」になった瞬間、それは「記憶」自体として存在し始める。
これが、いま書いたことが、私の意識の中で突然暴走するのである。
ぼくは記憶の中にある
は、前の文章にも後の文章にもつながらず、独立して存在し、それだけで「意味」をもつ。「ぼくは」「記憶の中に」「ある」という三つの要素にわかれたあと、「記憶の中にぼくはある」と「ぼく」と「記憶」が入れ替わってしまう。「ぼく」は「いま」「ここ」に存在しない。「ぼく」は「記憶」というもの(ことば)のなかにある、と主張しているように見えてくるのである。
「髪の束」が「花束」に見えた、気がした。その「記憶」なのかなにあるのが「ぼく」なのだ。「髪の束」と「花束」と「ぼく」が「記憶」のなかでは同等の存在である。もしかすると「髪の束」「花束」が「ぼく」を見ていたのかもしないのだ。「髪の束」が切断されながら、自分自身を「花束」だと認識し、その「認識」を書きとめてくれる「ぼく」を出現させていたのかもしれない。あるいは「花束」そのものが「切断される髪の束」と「ぼく」を呼び寄せていたのかもしれない。それは、「ことば」が「髪の束」「花束」「ぼく」を呼び寄せたということであって、「もの」が「ことば」や「意識」を呼び寄せたのではない。
「ことば」が世界を出現させる。
ぼくは記憶の中にある
これは「ぼくはことばの中にある」であり、「ことばの中にぼくはある」でもある。「ことば」のなかに最果は「ぼく(わたし)」を探している。「ぼく」は「仮称」である。まだ存在しない「自己」というものだろう。
若い読者がどういう感覚で最果の詩を(ことばを)読んでいるのかわからないが、きっと、「ことば」のなかに「自己」を探すとき、その「ことば」となってあらわれてくる「いま/ここ」にいない「自己」、どこか「記憶」として感じている「自己」を重ね合わせているのかもしれない。どこかに置き去りにしてきた「自己」と言い直せばいいのか。
私自身は最果の「ことば」のそのものに私を重ね合わせ、自己の輪郭を確かめるということはしないが、最果の「ことばの運動(ことばの肉体)」そのものに、あ、そうなのか、と立ち止まるのである。
「マッチの詩」には、強烈なことばがある。
ぼくが、あなたを好きだったことなど一度もなかった、
火のような、あなたへの感情はいつまでも黒い火薬のままで、
瞳の中に詰め込まれ、ずっと燃えることがない。
「火のような」のに、「火」ではない。「燃えることがない」のだから。しかし、それは「火薬」であり、いつ爆発してもおかしくはない。むしろ、それは「火」よりも危険な存在である。燃えている火は消すことができる。やがて消えもする。しかし、「火薬」はどれくらいの爆発を起こすかわからない。少量の火薬なら、わざわざ火薬とは意識しないし「詰め込まれている」とも意識しない。
矛盾だけが表現できる「いま/ここにない」もの、しかし、それを「知っている/覚えている」ことをことばは「いま/ここ」に出現させることができる。
このとき「知っている/覚えている」は「記憶」をもっと「肉体」に引きつけたものである。「ことば」というよりも「肉体」そのものである。「記憶」は「ことば」によって「記す」ことができる。しかし、「知っていること/覚えていること」は「ことば」を必要としない。自転車に乗れるひと、泳げるひとは、長い間自転車に乗っていなくても、泳いでいなくても、「いま/ここ」で自転車に乗り、泳ぐことができる。「肉体」は、「過去の体験」を「覚えている」「忘れない」。そんなふうに「肉体」になってしまった何か、「肉体」にしみこんで「ことば」になることを放棄している何かをひっぱりだし、「矛盾」のようなものとして出現させる。
こういう部分は、私のように、最果の世代から遠い人間にも、とても魅力的だ。「記憶の中のぼく」を一緒に生きている感じがする。これを私は「共感」と呼ぶ。
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