詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」

2021-03-05 10:08:01 | その他(音楽、小説etc)
ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」(野谷文昭訳)(再読)

マルケスの作品では、この「予告された殺人の記録」が一番好き。
タイトル通り、殺人が起きる。つまり結末が分かっている。それでも引き込まれ、読んでしまう。
小説はストーリー(結末)ではない。これは、同じ小説を何度も読み返すことからも、証明できる。読者(私)は結末なんか気にしていない。
森鴎外の「渋江抽斎」は主人公が真ん中くらいで死んでしまう。それでもことばは動いて行く。ここに散文の醍醐味がある。
「予告された殺人の記録」も同じ。

と書くと、もうほとんど書くことはないのだが、あえて書けば。
この作品をおもしろくさせている要素のひとつに、殺人者が双子という設定がある。
はやりのことばでいえば、別々人格。でも、似ている。目的も同じ。しかし、やはり微妙に違う。
これは、あらゆる登場人物に共通する。町の人たちは、殺人事件を止めたいと思っている。そして、双子も、実は止められたい、と思っている。
それなのに、何かがかみあわない。少しずつずれてしまう。この奇妙なちぐはぐさをマルケスは「魔術的描写」を封印し、即物的に、短い文章で積み重ねる。
その結果、誰にもわかっているのに、分かっていることが起きてしまう。
ふたりが逮捕されたあと、留置場の描写に、こう書いてある。92ページ。

彼らは三日三晩寝ていなかったにもかかわらず、眠ることができなかった。というのも、うとうとしかけると、そのとたん再び犯行の場に居合わせてしまうからである。

何度も現場、その時間に居合わせる。この悪夢的現実は、登場人物すべてが感じることだ。それは鏡に映った自分だ。鏡像が現実か、鏡の前の自分が本物か。この問いは、意味がない。それは、あえていえば「双子」なのだ。

*

この野谷文昭の訳には不自然なところがある。双子の持つ凶器の長さをインチで表記している。60ページ。一方で重さをグラムで表記している。(ページが出てこない)また、めでたいを「謹賀新年」と訳したりしている。68ページ。
インチはpulgar を訳したものだと思うが、この部分はスペイン語ではなく、英語訳を使ったのではないか。
こんな疑問を持つのは、アメリカで作られたピカソの伝記(子供向け)を読んでいたら、大きさをあらわすのにpulgarが出てきたからである。スペインは(たぶんスペイン語圏は)メートル法である。センチメートル、グラム。アメリカではそれが通じないので、インチに直した。それをそのまま転用しているように思える。
(あとがきに、英訳本を参照したとある。)
コメント
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