詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フリオ・コルタサル「もう一つの空」

2021-03-28 10:35:28 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「もう一つの空」

主人公は、ブエノスアイレスを歩きながら、そのままパリの通りに出る。ふたつの街が融合し、男は自在に行き来する。
そのパリでは、女性殺人事件が起きる。怯える恋人。恐怖におののくパリ。
そこで、犯人かもしれない男とカフェで遭遇する。203ページ。

彼はどこか遠くを見ているような、それでいて妙に思いつめたような表情を浮かべてこちらを見たーーその果てしなく続く一瞬の間、僕たちはまるでそこに存在していないかのようだった。

ふたつの矛盾したことばがある。
「どこか遠く」と「こちら」、「果てしなく続く」と「一瞬」。
これが矛盾ではなくなるのは、彼と主人公が「一体」になるときである。
これまで読んできた作品では、複数の登場人物の思いが切れ目なしに接続し、融合した。
この作品では逆のことが起きるのだ。
ひとり(主人公)の思いが、ふたりにわかれ、行動する。隠れた思いが意識になって、行動を起こす。
このときの潜在意識を、ベルグソンの定義にしたがって言い直せば、考えである。考えにしたがって行動を企て、実行する。
しかし、この考え→実行は、思いではないから、思いからは何が起きているか自覚できない。
「二重人格」を、二重人格と自覚できない。
それが「どこか遠く」と「こちら」の一体化、「果てしなく続く(時間)」と「一瞬」の同一視という矛盾となってあらわれる。
矛盾しないのは、読者が主人公を自分の肉体で追認するときである。考えを捨て、思いに身をまかせる。そうすれば、その路地を曲がればブエノスアイレスに踏み込み、さらにパリのあやしげな通りにも潜り込める。
コルタサルは「考える思想/肉体を律することば」ではなく、「思う思想/肉体を誘い、惑わすことば」を書く。
それは視力(文字)のことばではなく聴力(口語)のことばである。いま、録音機器があふれているから、話ことばも簡単に記録できるが、以前は話ことばは次々に消えて行く。ことばに「時間」を持ち込むには、聞き手がことばを思い出さないといけない。その、ことば、記憶、肉体の関係を非常に緊密に展開するのがコルタサルの文体。コルタサルが口語を文学に持ち込んだのだ。

話ことばと記憶、録音の問題を文学に持ち込んだのだ作家にベケットがいる。「最後のテープ」。もし、ベケットやコルタサルが現在生きていたら、音声としてもことば、声と思想をどんな風に展開したか。
ふと、夢見てみるのである。見えない夢を、夢がそこにあると酔ったような感じで。

コメント
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