フリオ・コルタサル「牡牛」「夜、あおむけにされて」
二篇は「遊戯の終り」に収録されている。
やはり時間が伸び縮みする。
時間、といえば、ハイデガーの「存在と時間」。もう40年以上前だが、岩波文庫で三回読んだ。でも、さっぱりわからない。日本語訳(です、ます調だった気がする)がなじめず、理解することをあきらめてしまった。
でも、読んだので、ずいぶん影響を受けている、と思う。
特に、ハンマーと手とものとの関係。肉体を通じて世界に働きかけて行く、という考えは百姓仕事をしてきた私には、思想とは肉体であるという意識になってしみついた。
それがコルタサルとどう関係があるのか。
わからないが、私は、なんとなく、コルタサルを読むと、時間と意識、時間と人間について考えてしまう。
「存在と時間」ではなく、「人間と時間」。そしてそれは、「人間とことば」という具合にずれてゆく。
時間はことば、ことばは時間として見えてくる。
ことばは、時系列通りに動かない。遠い過去を、一瞬前より鮮やかな事実として存在させてしまう。そして、その事実というのは、なんというか、意識、感覚の充実なのだ。充実した肉体が、何も存在しない場(たとえば死が生まれる場)にあらわれてきて「生きている」をつくりだしてしまう。
「あのネズミ、殺さなければ死んでしまう」というせりふがベケットの戯曲にあるが、その感じ。死んでしまうのに、まだ生きている、しかも死ぬために。
不気味なのは、そこから、では生きている時間とは何か、時間を生きるためにどうすべきか、というところへコルタサルのことばは動いて行かない。
こういう時間、こういう肉体があったと、まるで悪夢のように鮮明に語る。
でも、そのことばが、私は好きなんだなあ。
個別の感想ではなく、その周辺で考えたことを書いてみた。