詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フリオ・コルタサル「夕食会」

2021-03-17 13:37:05 | その他(音楽、小説etc)
フリオ・コルタサル「遊戯の終わり」

この短編集にはいくつかのジャンルのものが含まれているが、私は伸び縮みする時間を描いた作品が好きだ。物理の、あるいは壁にかかっている時計とは違う独自の時間が動く。
「夕食会」は往復書簡で構成されている。招待客のひとりが自殺する。それは、手紙が出されたあと(夕食会が開かれたあと)か、前か。
まあ、これは読者が判断すること。どっちでもいい。
ひとは、ことばを使って考えるが、ことばをつかっていると、時間は必ずしも直線状には流れない。思い出が、過去が、ある瞬間を突き破って噴出する。それは、今なのか、それとも未来の予告なのかもわからない。
「時間、それは戯れに独楽を回す子供」というヘラクレイトスのことばが冒頭に書かれているが、時間はむしろ動いている限り人をひきつける魅力がある。事実か嘘かではなく、動く時間は現実なのだ。

と、書いて、私はウルフを思い出す。意識の流れ。意識とは、時間である。そして、ジョイスも思い出す。意識の流れ。
ウルフの文体は、内部から流れるにまかせる艶やかな輝き。ジョイスは、むしろ意識的に流れを誘い出している。どこか構築的だ。

コルタサルも、構築的なのかも知れないが、不思議に無造作なところ、子供の無防備な自然さがある。ウルフに近いと私は思う。
他人に関係なく、主人公の意識は動くのだ。
この、往復書簡も、相手のことを気遣うことばを使いながらも、自分の意識をそのまま垂れ流すところがある。つまり、自分にとって都合がいいように。
意識、あるいは頭脳とは、自己保身のためなら時系列を変更することくらいなんでもないことなのだ。

そんなことがテーマではない、とコルタサルファンはいうかもしれないが、私は、かってにそう読むのだ。
充実したことばが時系列時間をつきやぶって、横溢する。独自の「持続」を成立させる。

「石蹴り遊び」は、そういうことをしめす象徴的作品だが、また別の機会に。
コメント
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