森鴎外選集 第二巻 「花子」
第二巻の全作品について書くつもりだったが、「青年」を読んだあとでは、小品はあまり書きたいことがない。
「花子」は、ロダンの芸術観が書かれているのでおもしろい。日本のモデルを見てのことばである。
270ページ。
「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹って見える内の焔が面白いのです。」
ロダンがこの通りのことを言っているかどうかわからないが、なるほどと、納得がいく。
最後のことばも、まるで花子の裸が彫刻として立ち現れて来るようだ。
で、こういうことばにも、私は鴎外の正直を感じる。対象に深く入り込み、生きていることばを動かす。そこでは、鴎外はいったん捨てられ、対象に与えられたものを受け止め自分をことばとして整え直す力が動いている。
自分をいったん捨てる、というところが美しい。
漱石はどうか。「五月蝿」と書いて「うるさい」と読ませる。これは、自分を捨てず、相手(対象)を自分に引き込む方法だと思う。
鴎外は、こういう造語を使わない。あくまで、人が使ってきたことばを大切にする。
漱石は天才、鴎外は努力家なのだろう。努力のもつ正直に触れると、私は静かな気持ちになる。
「あそび」は、鴎外の自画像なのだろう。机を二つ、大事なものとそうでないものを常に区別しながら対象に向き合うという基本姿勢のようなものが感じられる。
第二巻の全作品について書くつもりだったが、「青年」を読んだあとでは、小品はあまり書きたいことがない。
「花子」は、ロダンの芸術観が書かれているのでおもしろい。日本のモデルを見てのことばである。
270ページ。
「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹って見える内の焔が面白いのです。」
ロダンがこの通りのことを言っているかどうかわからないが、なるほどと、納得がいく。
最後のことばも、まるで花子の裸が彫刻として立ち現れて来るようだ。
で、こういうことばにも、私は鴎外の正直を感じる。対象に深く入り込み、生きていることばを動かす。そこでは、鴎外はいったん捨てられ、対象に与えられたものを受け止め自分をことばとして整え直す力が動いている。
自分をいったん捨てる、というところが美しい。
漱石はどうか。「五月蝿」と書いて「うるさい」と読ませる。これは、自分を捨てず、相手(対象)を自分に引き込む方法だと思う。
鴎外は、こういう造語を使わない。あくまで、人が使ってきたことばを大切にする。
漱石は天才、鴎外は努力家なのだろう。努力のもつ正直に触れると、私は静かな気持ちになる。
「あそび」は、鴎外の自画像なのだろう。机を二つ、大事なものとそうでないものを常に区別しながら対象に向き合うという基本姿勢のようなものが感じられる。