詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

魯迅「故郷」「小さな出来事」

2021-03-15 10:55:03 | その他(音楽、小説etc)
魯迅選集 第一巻 「故郷」「小さな出来事」

「故郷」の最後の方に「道」ということばが出てくる。84ページ。

いま私は私の道を歩いていることをさとった。

高村光太郎の「道」を思い出す。僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる。
けれど、かなり違う。
魯迅は旧友や故郷の人とは違う道を歩き始めたと自覚している。
でも、道とは何か。
魯迅は、こう言い直している。84ページ。

私たちのかつて経験したことのない生活

「道」は「生活」だ。そして「希望」だ。85ページ。

希望とは、もともとあるものだといえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる。

この、道=生活=希望、とはどういうことか。
「小さな出来事」は、魯迅を乗せた人力車が老女とぶつかる。老女はけがをする。車夫は警察へ届けに行く。そのとき魯迅は、「自分の方から事件をこしらえ、おまけに私の予定を狂わせてしまう」(54ページ)と憤慨するのだが、

車夫は、老婆の言うことをきくと、少しもためらわずに、その腕を支えたままで、ひと足ひと足、向うへ歩き出した。私がケゲンに思って、向うを見ると、そこには巡査派出所があった。

車夫は、事故をとどけに、そして老女を助けるために歩いている。そこに、道がある。そこに車夫の生活がある。そして、人間の希望がある。
この道を歩くとき、車夫は、

少しもためらわずに、

行動している。
これが魯迅に衝撃をあたえる。
そこには、希望だけでなく、思想がある。
それは、西洋発祥の難解なことばで語られる思想ではなく、生活の、つまり人と人をつなぐ力である。
これに接し、自己を見つめ直す魯迅。
その正直に、私は、こころを打たれる。

「道」で思い出すのは、和辻哲郎の「古寺巡礼」である。父に、お前の道はどうするのだ、というようなことを問われる。
この「道」はやはり魯迅の道に通じる。
それは、つきつめていけば、道元や荘子にもつながるかもしれない。
人は、どうやって正直になるか、なれるか。
問いかけられているこころになる。

魯迅もまた、私にとっては、先生である。叱られるために、訪ねてゆかなければならない先生である。
コメント (1)
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