鴎外選集 第二巻 「電車の窓」
この第二巻の作品は、単独でもおもしろいが、他の作品と関連づけると見えてくるものがある。
「電車の窓」は、電停で出会い、同じ電車に乗り合わせた女のことを書いている。「牛鍋」では、女は一言もしゃべらず、男を見ていた。男は女に見られているが、何の反応も表さない。
「電車の窓」の女は「牛鍋」の女のように何も言わない。しかし、男が女の思いを想像し、ことばにする。
この(女の)目がこんな事を言うのである。(33ページ)
その姿勢がこんな事を言うのである。(34ページ)
その瞳はそれより多くのものを僕に語った。(36ページ)
きっと「牛鍋」の男も、女のこころを想像した。だから、
女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である (28ページ)
と書いたか。
「電車の窓」の女の思い(男の想像)は「永遠に渇している女」の思いである。
それが正しいか間違っているかは関係ない。
「永遠」というものは、何も言わなくても他人に通じる。
だから、その証拠(?)として、電車で乗り合わせた少女たちの反応(男と同じ電停でおりた)を、こう書く。
38ページ。
互いに肘で突っ突きあって囁いて、それから声高に笑いながら、忽ち人込みに隠れてしまった。
他人のこころを読み、空想するのは人間の自然だろうか。そして、そのとき想像するのは人間の「永遠」だろう。
「牛鍋」の少女は母について何も「活動」していない。しかし、きっと、「電車の窓」の少女の年になれば、あのときの母を思いだし、同じように想像するだろう。
鴎外は人間の「永遠」というものを書こうとしている。それは日本近代文学の「自然(主義)」とは違うものである、と読むことができる。
この第二巻の作品は、単独でもおもしろいが、他の作品と関連づけると見えてくるものがある。
「電車の窓」は、電停で出会い、同じ電車に乗り合わせた女のことを書いている。「牛鍋」では、女は一言もしゃべらず、男を見ていた。男は女に見られているが、何の反応も表さない。
「電車の窓」の女は「牛鍋」の女のように何も言わない。しかし、男が女の思いを想像し、ことばにする。
この(女の)目がこんな事を言うのである。(33ページ)
その姿勢がこんな事を言うのである。(34ページ)
その瞳はそれより多くのものを僕に語った。(36ページ)
きっと「牛鍋」の男も、女のこころを想像した。だから、
女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である (28ページ)
と書いたか。
「電車の窓」の女の思い(男の想像)は「永遠に渇している女」の思いである。
それが正しいか間違っているかは関係ない。
「永遠」というものは、何も言わなくても他人に通じる。
だから、その証拠(?)として、電車で乗り合わせた少女たちの反応(男と同じ電停でおりた)を、こう書く。
38ページ。
互いに肘で突っ突きあって囁いて、それから声高に笑いながら、忽ち人込みに隠れてしまった。
他人のこころを読み、空想するのは人間の自然だろうか。そして、そのとき想像するのは人間の「永遠」だろう。
「牛鍋」の少女は母について何も「活動」していない。しかし、きっと、「電車の窓」の少女の年になれば、あのときの母を思いだし、同じように想像するだろう。
鴎外は人間の「永遠」というものを書こうとしている。それは日本近代文学の「自然(主義)」とは違うものである、と読むことができる。