フリオ・コルタサル「合流」
戦場。兵士が合流するまでを描いている。
この小説でも、考えると思うが交錯するが、考えるの比重が重い。理由は簡単だ。戦場(戦争)には作戦がある。具体的な行動と、その結果もたらされる勝利。考えるは、常に結論を持っている。それが自分にとって不都合であっても。
82ページ。
冷静にいろいろな可能性を考え合わせてみると、彼が殺されたという結論しか出てこない。
一方、思うは結論を持たない。
82-83ページ。
息子のことを思い浮かべるが、息子は今ここから何千キロも離れたある国にいて、ベッドで眠っているだろう。現実感がないせいで、そのイメージが薄れ、木の葉の間に消えてゆく。
思いは、消えても、何も問題はうまれない。個人の感覚である。必ず共有しないと生きて行けないものではない。
だからこそ、思いが共有されたときには、その人間関係が特別なものになる。
息子のイメージが消えたあと、83ページには、モーツァルトと戦場が交錯する面白いことばがつづく。主人公は、それを合流するべき相手が知ったら、「彼はさぞかし喜ぶだろう」と思う。思うは、書かれていないが。
考えるは現実を共有するが、思うは現実感を、つまり感じを共有する(享有する)ものなのである。
そして、この現実感というには、モーツァルトの氾濫するイメージのように、個人の肉体の内部から溢れてくる固有の時間、持続する自由な時間なのである。と、ベルグソンを思い出しながら、付け加えておく。
一方、考えるの方は、常に「現在時制」(80ページ)のなかで動き、それ以外のものを拒絶する。
コルタサルのなかで、考えると思うがどういう働きをしているか分析するには、この作品は最適なテキストになると思う。