鴎外選集 第三巻「カズイスチカ」「雁」
「カズイスチカ」の次の部分に、私は鴎外の思想を強く感じる。
148ページ。
自分が遠い向こうにあるものを望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているという事に気が付いた。
思想は遠い理想を手にいれるためのものではない。日常の、いまあるものと正確に向き合うためにある。自分を正直にするためのこころがけ(精神)のなかにある。正直のなかにしそうがある。
これを、東洋のことばで、「道」という。
先の文章につづいて、こう書いてある。道ということばが出てくる148ページ。
宿場の医者に安んじている父のレジュアションの態度が、有道者の面目に近いということが、朧気ながらに見えて来た。
目の前にあるもの、ことに全精神を傾けるのは、市井のひともおなじ。破傷風の患者の様子を、家族は「一枚板」と呼んだ。その、臨時の病名に主人公は驚く。153ページ。
智識の私には累せられない、純朴な百姓の自然の口からでなくては、こんな詞の出ようがない。あの報告は生活の印象主義者の報告であった。
「自然の口」「生活の印象主義」が「智識」に対抗する正直である。そしてそこに、わたしは荘子につうじる「道」を感じる。
市井のひとのなかに隠れている思想(正直/道)を、鴎外はしっかり見つめ、ことばに定着させている。
「一枚板」は、世界に翻訳して広めることのできる「思想言語」ではないが、そこに、たしかに生きている思想なのだ。
「雁」は、いったいいつになったら雁が出てくるのだろうと思い、読み進むと突然出てきて、出てきたと思ったら終わってしまう小説である。
その、突然(偶然)が妙に面白い。
雁にひっぱられて、事件が起きない。その、起きない日常に、人を動かす思想がある。
この思想を説明するのはかなり骨が折れる。スマートフォンでは、書くのが面倒なので省略するが、事件を準備するのも阻むのも、日常をどれだけ正直に生きているか、ということなのだ。
サバの煮たものが好きか嫌いか、嫌いなときどうするか。もし、「僕」が正直を発揮しなければ(?)全く違うことが起きていただろう。
と、書いて。
これを思想と呼んでしまうと妙なことになるが、私が思想と呼びたいのは、そういうことの奥底を動いている力なのである。