詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

魯迅「狂人日記」

2021-03-14 10:14:26 | その他(音楽、小説etc)
魯迅選集 第一巻 「狂人日記」

魯迅になぜ惹き付けられるか。
正直を感じるというのが第一の理由だが、もうひとつ、魯迅の書いている中国が、私の暮らした集落に似ているからだ。暮らしと人が似ている、といえばいいのか。貧しくて、恨み、つらみをかかえて生きている。

そこに、思想はあるか。
いわゆるヨーロッパ発祥の、翻訳言語の流行思想はない。
しかし、人間が暮らしている限り、思想抜きでは、つまり、ことばをつかって、物事を考えないでは生きて行けない。

国語を、その国民の到達した思想の頂点と定義したのは、三木清だったときおくしているが、そうであるなら、どの国民のことばも、きちんと向き合えば、そこから思想を導き出せるはずである。

魯迅のしているのは、そういう仕事だ。
さて。
「狂人日記」。
どこに、思想があるか。「狂人」に思想があると言えるか。
主人公が近所の人を見て、こんなことを思う。16ページ。

眼つきがおかしい。おれをこわがっているようでもあるし、おれを無きものにしようと計っているようでもある。ほかにも七、八人、ひそひそ耳打ちして、おれの悪口をいっているやつがある。そのくせ、おれに見られるのがこわいのだ。

「眼つき」「耳打ち」。
ことばではなく、肉体の動きを手がかりに、妄想(?)がことばになる。
ことばは、肉体となって、未整理(?)のまま、ことばを動かす。この妄想を妄想と呼ぶのは簡単だ。しかし、こうしか動けないことばというものが存在する。
これが、主人公の、ことばの頂点、思想の頂点である。だれが見ても、そこに主人公を見てしまう。主人公が見える。

こういうことばを思想と呼ぶ人は少ないだろうが、私は思想と呼ぶ。そして、聞いたけれど聞かなかったことにしてその声をなかったものにするのではなく、しっかりと肉体にひきいれ、自分のことばをとおして書く。その、人間への寄り添い方に、強烈な力を感じる。
どこまでことばにできるか。
ことばにした瞬間に生まれる「共有感覚」と「反発」。自分の肉体のなかでおきる変化。
そういうものを感じ、そこに「正直」を感じる。そのことばの前では、私は、「裸」「素手」になるしかない。

「出て行け! 気ちがいは見せ物じゃない!」(25ページ)

しかし、見なければならない。見ないことで、存在しなかった、と言ってはいけない。

「おまえたち、いますぐ改心しろ。しん底から改心しろ」(25-26ページ)
コメント
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