詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フリオ・コルタサル「ジョン・ハウエルへの指示」

2021-03-26 10:46:47 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「ジョン・ハウエルへの指示」

ピーター・ブルックに捧げる、という献辞がついている。そして、こう始まる。149ページ。

あとになって、つまり通りや列車の中、あるいは野原を横切っている時にゆっくり考えれば、すべてがばかばかしいものに思えたことだろう。

考えると思う。ふたつの動詞。これを入れ換えると奇妙な感じになる。なぜだろう。何度か書いてきたが、考えるというのは、秩序だてることである。因果関係、行動の時系列を整理し、論理の整合性によって、正しいかいなか、真偽を判断する。
思うは、そんなめんどうなことをしない。
その、考えると思うは、時の中で交錯する。だからこそ、コルタサルはわざわざ「・・・時に」と書いている。
でも、きょうは、その「時」に深入りせず、別の「時間」について書く。
ピーター・ブルックは演劇のひと。演劇とは何か。
最初の文に続いて、こう書いてある。149ページ。

劇場に入るというのは、不条理と手を結び、その不条理が効果的でしかも華やかに演じられるのを目にすることにほかならない。

不条理の定義は難しいが、不条理かどうかを判断するのは、考えることである。
自分のなじんでいる論理と合致しない。そのときが不条理。自分とは違う論理が世界を支配している。
演劇とは、そういう意味で、いつも不条理である。
自分とは無関係なひとが出てきて、彼らはそれぞれ自分の論理を生きる。特別な時系列がそこに、肉体と一緒に出現する。
そこに、観客は巻き込まれてしまう。
この短編では、ジョン・ハウエルは観客席から舞台に引き上げられ、芝居を強制させられる。彼の考えは無視され、芝居が続いて行く。
そのとき、ジョン・ハウエルの考えは乱れるが、同時に思いも乱れる。考えか、思いか、区別するのが難しい。
しかも。
ややこしいのは、演劇(芝居)は、一定の時系列で企画(脚本)通りに展開するものなのだが、考えだけでなく、思いも表現する。
演劇を評価するとき、登場人物の考えを中心に評価するのか、考えは気にくわないが、思いには同情してしまうというときは、評価をどうすればいいのか。
私は、思いの方に軍配をあげる。
たとえ殺人者が主役であっても、殺人者に同情し、共感することがある。
考えてみれば、奇妙である。不条理そのものである。

主人公は舞台に引き上げられてしまったがゆえに、つまり他人の考え、行動に自分をかかわらせてしまったために、不条理から抜け出せず、逃亡をつづけるのだが、このことは、コルタサルが自由を考えではなく、思いに重心をおいて生きていることを暗示していると思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする