詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フリオ・コルタサル「コーラ看護婦」

2021-03-24 10:56:10 | その他(音楽、小説etc)

フリオ・コルタサル「コーラ看護婦」

文章の段落意識は、簡単に言えば、テーマが変われば段落を変える、ということだと思う。
テーマというか、言いたいこと、思っていることは、登場人物一人ひとりによって違うから、ある場面で登場人物がそれぞれの主張(思い)を語るとき、段落を変えるか、主張を明確に分別するために鉤括弧がつかわれる。
しかし、コルタサルはこの作品で、普通なら鉤括弧でくくる発言を鉤括弧なしで、地の文に溶け込ませ、溶け込ませたまま主人公を交代させる。
100ページ。虫垂炎で入院した少年を母親が心配している。

こんな毛布で寒くないかしら。念のために、手の届くところにもう一枚毛布を置いておくように言っておいたほうがいいわね。大丈夫、寒くなんかないよ。あーあ、あの二人が帰ってくれてほっとした。ママが僕を子供扱いするものだから、いつだって恥ずかしい思いをしなきゃいけないんだ。

前半が、母親の、看護婦(病院)に対する思い。それを、少年の大丈夫ということばで引き継ぎ、主役が交代する。
とてもすばやい。
大丈夫、は少年が実際に大丈夫ということばを口に出したかどうかわからない。
それを明確にせずに、少年の、「恥ずかしい思い」へとテーマが変わってゆく。
この文体がとても面白い。
作品の中心は、少年とコーラの「思い」がすばやく、まるでひとりの思いのように、ふれあい、融合するところにあるのだが、それを母親を登場させ、最初に方法を提示したうえで展開してゆく。
考えは、こんなふうに融合しない。議論になる、けんかになる。
でも、思いは口に出されないまま融合する。
そして、この融合が、入院中の時間を特別なものにする。それは少年の時間なのか、コーラの時間なのか。つまり、主役はだれだったのか、あいまいにし、それでいて、不思議な充実感がある。
意識の流れ(思いの流れ)が、自在、自由なのだ。思いが横溢し、それが私を飲み込む。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする