石毛拓郎「メランコリーな竹篭」(「飛脚」27、2021年2月28日発行)
石毛拓郎「メランコリーな竹篭」は、詩人の墓参りの帰り、骨董市で竹篭を見かける。
骨董市の竹篭。いつごろのものか。値段からみてもあやしげである。
それでも
病躯の詩人が、野の花を摘んで投げ入れる様を、想った。
そして、買い求めるのだが、金を払うとき、
うつむき加減に、退屈そうな顔をしながら主人は
機械的で、無機質な手を突きだしてきた。
哀れをさらしているではないか。
この「哀れをさらしている」に、私は、どきりとする。
ヒューマニストなら違う表現、婉曲的な言い方をするかもしれない。「哀れを感じた」「哀れに触れた」。でも、石毛は「さらす」という動詞を使うことで、瞬間的に店の主人になるのだ。
竹篭を花入れに使う。民芸運動の「用の美」なんて関係ない。作って売る。金を稼いで生きる。そこには、生きている肉体と暮らしがあるだけだ。作れるものを作って売って生きるという、生き方そのものをさらす。
どう向き合うか、どう受け止めるか。
「さらす」ということばで、それを肯定する。民芸運動を突き破る。自分で作って、それによって自分の暮らしを美しく整えるとき、確かにそれは「用の美」である。
でも、そうでないなら、「転用の美」にすぎない。そこには肉体も思想もない。
石毛はそこまでは言わない。
ただ「哀れをさらす」力を受け止め、主人になりかわって、その思想をさらすのである。