鴎外選集 第三巻「羽鳥千尋」
森鴎外「羽鳥千尋」の67
ページ。
下に写すのは一昨年の夏羽鳥が己によこした手紙である。
と、ある。羽島は鴎外に、書生としておいてほしいと書いてきたのである。鴎外は職を紹介している。羽島は、病死している。
鴎外が手紙を紹介しているのは、
世間にはなんという不幸な人のおおいことだろう。(67ページ)
と思い、その人が生きてきたことを、ことばのなかに残したいからである。
不幸な人は不幸なだけではない。不幸な人、世間に知られていない人も、それぞれに思想を持っているからである。もし鴎外が羽島の手紙を紹介しなかったら、羽島の思想は、私たちにはつたわらない。
で、その思想とはどういうものか。
67-68ページ。
私は一介の書生である。失礼ではなかろうか、あつかましい事ではあるまいかと、幾度か躊躇して思い切られないので、とうとうこの手紙を書く。手紙はどれだけ長くなるか知らぬが、その中に一言の偽りもないということだけは誓って置く。
偽らない。それが思想である。ほんとうの、ことば。それは、何を語っても思想なのである。
鴎外は、手紙をただ転写するのではなく、きっと句読点を整理し、ことばも整えている。それは、羽島のことばを、より力のあるものにするためである。
鴎外は、創作するのではなく、そこにあるもの、生きた人間のことばを聞き取り、それを整える。整えながら、鴎外は登場人物になるのだ。
それは「ながし」にもつうじるし、「心中」にもつうじる。
こういうことをするのは、なぜだろう。「妄想」に、こんなことばがある。127ページ。
何物かにむちうたれ駆られているように学問ということに齷齪している。これは自分にある働きが出来るように、自分を仕上げるのだと思っている。
自分を仕上げる、ことばを仕上げる。ことばとは、思想、である。
鴎外は、人から聞いたことばを思想にまで高めているのだ。
魯迅につうじる。